「天の報いに目を留めよ(Ⅱ)」—人の子のためにー ルカ6章20節〜26節  要約 2017/1/22(日)

 「天の報いに目を留めよ(Ⅱ)」—人の子のためにー ルカ6章20節〜26節  
「人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。」(ルカ6章22節)
信仰者に2つのなぜがある。1つは神様を信じているのになぜ(試み)。もう1つは神様を信じているためのなぜ(試み)である。
 紀元64年頃(ローマ皇帝ネロ)から始まるクリスチャンの大迫害から信仰の自由を得るまで約250年も要した。313年ローマ皇帝コンスタンティヌス1世とリキニウスが連名で発布したとされるミラノの勅令(信仰の自由の公認)によって、長き迫害から解放された。しかし、今尚世界では殉教者が後を絶たない。
昭和14年に宗教団体法が発令。翌年、文部省は教団設立基準を教会員50名以上、信徒数5千名以上とし、それ以下は教団設立を認めなかった。昭和16年6月に東京富士見町教会堂にて日本基督教団創立総会が開かれ、「われら基督信者であると同時に日本臣民(しんみん)であり、皇国に忠誠を尽くすを以って第一とす。」その結果、当時の日本基督教団当事者は、この戦争は国家存亡をかけての大戦争と認識し、正義の戦争目的ゆえに、福音の本義に反しない限り、国家への忠誠を責務とする。しかし、この本の著者は、「戦争は互いに人を傷つけ人を殺す。どんな理由があろうと肯定できない。赤紙一枚の招集状で父兄を戦場に狩り出し無惨に家庭を破壊し、敢えて意に介しない行動は、それが国家大義名分であっても非人間的である……。それだけにキリスト教徒は神の愛と人間の愛からして戦争に対する認識と態度を再考し反省すべき機会であった....。」 
 このようにキリスト教に対する弾圧、迫害は将来ないとは断言できない。主イエスは、「わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。」と言われた。
 最近、我が国においても共謀罪という法案が審議されている。この法案が決まれば、盗聴も合法的になり、もし2、3人で話している内容が、人を殺すという言葉だけで共謀罪として逮捕できると解釈できるとのこと。この法案は特にテロ対策のためということである。しかしこの法案によって、言論の自由を奪い、プライバシーが合法的になし崩しにされないかとある有識者や弁護士たちは危惧している。
 私たちクリスチャンは、この共謀罪が信仰の自由を脅かすものでないことを祈り願うのである。「わたしの名のために」とは、主を信じているというだけでなく、イエス・キリストの十字架の救いについて、イエスは死から復活された神の御子であることを、人々に具体的に証しすることによって嘲笑、侮辱、無視、疎外などによる苦しみ、屈辱、忍耐、労苦である。
 さて、私たちは人間関係が難しくなることを心配するあまり、信仰を心の奥に仕舞い込んではいないだろうか。あるいは、私はクリスチャンですと言いそびれ、この世と妥協して日々を過ごしてはいないだろうか。もし、イエス・キリストを抜きにした人間関係を優先していくなら、早晩自己矛盾に悩む時が来る。なぜなら、私たちの信仰は、私たちの救いのために御子イエスが十字架の死という屈辱と苦しみを負ってくださったという神の愛に依拠しているからである。主を信じているためのなぜ(試み)の答えは、「その日には、喜びなさい、おどり上がってよろこびなさい。なぜなら天の報いは大きいのだからです。」との主のおことばにあるのではないだろうか。