「イエス様がほめられた信仰」ルカ7章1−10節 要約 港キリスト教会 17.3.19(日)

  「イエス様がほめられた信仰」ルカ7章1−10節 要約 港キリスト教会 17.3.19(日)

 ユダヤのカぺナウムに百人隊長が駐在していた。百人隊長は、約60名の歩兵を持つ部隊の隊長であり、しもべ(奴隷)を生かすことも、殺すこともできる権威があった。
 しかし、この百人隊長は敬虔な人物で、ユダヤの人々に好意を持たれ、イエスも彼の信仰をほめられた。今回はこの百人隊長の人物像について学びましょう。

Ⅰ.2−5節 彼の良き人柄は、神を恐れる心から。

 2節の重んじる(dear)とは、大事な、尊い、高い評価、尊敬するという意味がある。
彼は、自己保身のためではなく、心から人を大切にし、人を正しく指導していた。
 使徒パウロはピリピ2章3節で、「何事でも自己中心からすることなく、へりくだって、互いに自分よりもすぐれた者と思いなさい。」と勧めている。
 まさに、この百人隊長の行為そのものではないか。指導する立場、あるいは仕える立場であれ、良い人間関係を築くための大切なみことばである。
 4節に「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。」と書かれている。
 この資格(Worthy)とは、何々にふさわしい。何々だけの価値があるという意味である。この資格:ふさわしい(Worthy)という言葉は、礼拝の語源であり、イエス尊い血潮によって価値ある者とされた者が、礼拝されるにふさわしい方を礼拝(ワーシップ:Worship=Worthy(ふさわしい)+Ship(状態・身分)することであり、ふさわしいミニストーリー(奉仕)とは、「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人であれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。」(ペテロ第一4章11節)と奉仕者の大切な心得を教えている。

Ⅱ.6―7節 彼の謙遜は、神を敬う開かれた心から。

 百人隊長は謙遜であった。それは、彼のしもべの重い病気をいやしてもらうためのパフォーマンス(人目を引くために)ではなく、まことの神様を敬い、開かれた心から生じる素直な態度である。
 また彼の神を敬う開かれた心は、神のことばへの絶対的な信頼となった。「主よ、ただ、おことばを」と求めた百人隊長の素直で、また純粋な信仰を学びたいものです。

Ⅲ.8節 彼の指導力は、上からの(神の)権威を受け入れる自由な(広い)心から。

 8節にある権威とは、統治力、選択の自由、行動する自由ないし権限、支配力といった意味を持つ。彼は与えられた権威を、自分の利益のために悪用せず、固執しないで、自由な心で用いた。
 それゆえに、彼は上からの(神の)権威を広い心を持って受け入れることができた。まさに、神の権威を頑なに拒む律法学者やパリサイ人たちとは真逆である。
 彼の自由な心は、イエスのことばとイエスがなされたみわざに対してオープンであった。
彼は、人の功績や成功を喜び、妬まない広い心の持ち主であったと思われる。
 ヤコブは3章15―17節で「下からものは、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。しかし上からのもの(知恵)は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」と語っている。
 イエスがほめられた百人隊長の人物像がこのみことばの中に言い表されている。彼はイエスに会うことをしなかったが、イエスは彼のしもべをいやされた。私たちは、為政者が神を畏れ、正しく権威を用いる者となるために祈り、神様からの権威を正しく理解して適用し、いかなる時でも、神のみことばに固く立ちましょう。