「気落ちした者を慰めてくださる神」 ルカ7:11−17 要約 2017年4月2日(日)港キリスト教会

 「気落ちした者を慰めてくださる神」 ルカ7:11−17
      
 30数年前に、求道中の30歳代の方がガンで召された。幸い病床で受洗されたが、ご両親の悲しみは今なお消えない。けさ登場する母親は、夫に先立たれ、さらにひとり息子をも亡くした今、その悲しみは測り知れないものであった。 そのような時に、イエス様はその母親を見て可愛いそうに思われ、「泣かなくてもよい」と声をかけられた。
身近な人が失意のどん底にあるとき、どのような言葉をかければ良いのか戸惑う。
 しかし、イエス様はその人にとって最善の言葉をかけられ、また最高のみわざをなされた。この所から、私たちが信じ、愛しているイエス様とはどのようなお方かを見て行きましょう。

 第1にイエス様は、私たちの心の深い部分をご存知です(13節a)。
 イエス様は、その母親を見て可愛そうに思われた。第一サムエル記に登場するエルカナには、ハンナとぺニンナの2人の妻がいた。ハンナには子供がなく、ペニンナのいじめを受け辛い日々を送っていた。夫はやさあしい人であったが、ハンナの心の深い部分までは分からず、ハンナは神の前に激しく泣いて祈っていた。そこで神は、彼女に心を留められ、子供を与えられた(第一サムエル記1:12)。

「私たちの大祭司(イエス)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(へブル書4:15)

 ゆえに、私たちが悩み、悲しむとき、イエス様は私たちの心の深いところを知って下さる。いつでもイエス様に心の内を打ち明けるなら、イエス様は必ず受けとめて、慰めてくださる。

 第2にイエス様は、私たちを慰め、励ましてくださる。
「泣かなくてもよい」とイエス様が、悲しみの中にあるやもめに声をかけられた。
 悲しみの中にいる人に同情や思いやりを持つことができても、その人の心を真に慰め、励ますのは、決して容易なことではない。夫だけでなく、一人息子も亡くしたやもめに向かって、「泣かなくてもよい」と一体誰が言うことができるのか。
 しかし、イエス様は違っていた。それは、そのように言うことのできるお方であった。まさにイエス様は、人間の根本的な問題を解決できる主権者だからこそ、まことのいやしと慰めを受けることができる。そのためには、まず神様に信頼しましょう。そして、神様にお委ねしましょう。

 第3は、主は救い主である(14節)。
「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われると、青年は起き上がり、ものを言いはじめた。それを見た人々は驚き、恐れ、神をあがめた。
 このやもめは、イエス様に出会って素晴らしい恵みを得た。彼女は自分からイエス様に救いを求めたわけではない。
しかし、このやもめの涙をご覧になられたイエス様は、深い同情心とあわれみの心を奮い立たせ、一人息子の死からの生き返りという奇跡をなされた。
 そのイエス様のご愛は、ご自身を十字架による罪の身代わりの死へと駆り立てた。その結果、私たちの罪から来る永遠の死の問題は、イエス・キリストを信じる信仰によって解決された。
 神にとって私たちは宝物(高価で尊い)であり、何の分け隔てもなく、すべての人が愛されている。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。」(第二コリント1章3節)