「あなたの罪は赦されていますか?」—安心して行きなさい− ルカ7章36節―50節 要約 2017年4月23日(日)

「あなたの罪は赦されていますか?」—安心して行きなさい− ルカ7章36節―50節 
 
 ひとりの罪深い女がイエスに愛されていた。イエスを食事に招いたパリサイ人シモンは、イエスの所に来た女は罪深い者であるとレッテルを貼っていた。しかしイエスは、この女のありのままを受け入れられ、しかもイエスは、当時、ユダヤ人が嫌悪していたパリサイ人の招きにも応じられた。イエスは、人を分け隔てされず、いかなる人であっても愛し、赦して下さる。
 その根拠は、「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた」というみことばにある。
 神の御子イエスの愛は、罪人を救うためにいのちを捨てることさえも惜しむことはなかった。イエスは、罪を赦された女に「安心して行きなさい」と声をかけられた。それは、罪を犯した者の罪責感や呵責から解放されたよというイエスの宣言である。
 さて、イエスを食事に招いたパリサイ人シモンは、罪深い女とは違い、イエスに対して失礼であった。それは、彼のプライドから来たものと思われる。彼の高い身分によるエリート意識が、イエスがどのようなお方であるかを謙虚に知ることを難しくした。シモンだけに限らず、多くのパリサイ人たちの高いプライドは、イエスがなされた奇跡を見ても、素直に心を開くことなく、結論的には、信じたくなかったのであろう。確かにシモンやパリサイ人たちの学識は高かったが、人々を自分たちの物差しで測り、評価してレッテルを貼った。
 聖書は、「偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきりと見えて、兄弟の目からもちりを取り除くことができます。」と人を評価する前に、まず自分を正しく吟味し、評価しなさいと教えている。人にレッテルを貼るというのは良い行為とは言い難い。
 ガンジーは「私は、自分に欠点があることをよく知っているから、他の人の欠点やあげつらわないように心がけている」と言った。
 ところが、パリサイ人たちは、聖書は汚れた者から離れなさいと教えていると解釈し、人々に対して極端な分離主義の立場を取ることが正しいと思い込んだ結果、致命的な霊的盲目者となった。さらにイエスは、パリサイ人たちが、いかに愛のない、憐れみのない、自己本位な者であるか明らかにされた。
 それとは対照的に、不道徳な女は、人目をはばからずイエスのもとに行った結果、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」と罪の赦しと魂の平安を得た。人を欺く宗教とは、罪の赦しを説かず、むしろ罪から因縁を説いて恐怖心を与え、心を縛って入信に迫る。
 しかし、イエスを信じる者は、「あなたの罪は赦されていますよ。安心して行きなさい!」と宣言してくださる。