「神様は一羽の雀さえも心に留めてくださる」-恐れることはありません- 2017年9月24日(日)

      「神様は一羽の雀さえも心に留めてくださる」-恐れることはありません-      

 弟子たちにとって、あらゆる病を癒されるイエスの弟子であることは誇りであった。そのような弟子たちにイエスは、パリサイ人たちの偽善に気をつけなさいと警告された。

 では、彼らの偽善とは何か。それは、罪を犯しているのにもかかわらず自分を義としていることである。しかも、真実であると知りながら、それを否定することである。そのような人たちは、絶対に間違いがないという自分を基準にして人をさばき、非難する。それがパリサイ人たちの偽善(パン種)であった。

 では、パリサイ人の偽善に気をつけることと彼らを恐れるなという二つのメッセージはどう繋がっているのか。
まず、彼らの偽善によって、正しくあるべき権力を不正な抑圧に、そして正義であるべきものを不義に変え、その抑圧と不義の矛先がイエスに向けられ、また弟子たちやキリストのもとに集まる人々たちにも向けられていくことを予知されていた。ですからイエスは、身許に集まって来たおびただしい数の群衆たちは、やがてイエスから離れ、また弟子たちも偽善者たちを恐れて、主から逃げ去ることもご存知であった。
 このように、イエスと深く関われば関わるほど、自分の身に危険が及ぶ状況下で、彼らを恐れてはならないと言われたのは、偽善者たちや、権力者たちを恐れてしまって伝道が閉ざされないためではないだろうか。そこで主は、偽善者たちを恐れなくてもよい理由を話された。

 まず主は、「ゲヘナに投げ込む権威を持っている方を恐れなさい。」と語られ、一羽の雀の例から、どれほど私たち人間を愛しているかを話された。「五羽の雀は2アサリオン(およそ600円)で売っているでしょう。そんな雀の一羽さえも、神の御前には忘れられてはいません。」(5節) 「一羽の雀でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」(マタイ10章29節)と語られた。これは、一羽の雀に対する神の深いご配慮とご愛顧である。さらに、神様によって、私たちの頭の毛さえもみな数えられている。
 これは、神様こそ私たちの創造主であり所有者であることを意味している。一羽の雀さえも守りたもう神様は、ご自身の似姿によって造られた私たちを見捨てられることはない。何よりも、罪深い私たちを救うために、神の御子が身代わりとなられて十字架でいのちを捨てられたというのは、神様が私たちを心から愛してくださっているという最高かつ究極の証しではないか。