「真の豊かさを求めよ」 ーいのちの付与者を忘れないようにー ルカ12章13-2節 2017年10月8日(日)港キリスト教会

  「真の豊かさを求めよ」 -いのちの付与者を忘れない様に− ルカ12章13〜21節  
 あるお金持ちが、兄弟との遺産相続で悩み、イエスに相談を持ちかけた。ところが、イエスは彼を叱責され、彼の富に対する考え方について、たとえ話を用いて忠告された(15節)。この所から、この世の豊かさが人にもたらすもの、そして真の豊かさとは何かを見ましょう。
第1は、世の豊みが増すほど尽きない心配事(17節)。
 たとえに登場する金持ちの「どうしょう」という言葉の背後に、この世の物を持ち過ぎたための心配事がある。アブラハムと、おいのロトの家族とはとても仲良く暮らしていた。ところが、両家族とも豊かになり、お互いの間に争いが起こり、遠く離れて住むようになった。今日の日本は、豊かで、恵まれた環境の中にいるが、人と人との争いが絶えない。若い年齢層に限らず、年配の人達が、すぐに切れて、周りの人たちとの間でトラブルが起きる。その原因は様々考えられるが、この世の物だけでは人の心は満たされないことにも起因しているのではないか。この世のものではなく、変わることのない神の愛と平安によって心が満たされるなら、実に幸いなことではないか。パウロは、『私はどんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。』(ピリピ4章11節)と語る。世の富を求め過ぎて、心配事が増え、心が落ち着かない歩みではなく、いかなる状況にあっても、神の恵みによって衣食足りて、日々平安に過ごしたいものである。
 第2は世の豊みが増すほど尽きない執着心(18節)。
それは、お金持ちの『こうしょう』という思いである。『あの倉を取り壊して、もっと大きいのを』と。このように人間の物欲への執着心はとどまることはない。イエスは、『いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。』(マルコ4章18、19節)私たちも信仰生活において、物欲がもたらす執着心が、信仰の実を結ぶための妨げとならないように気をつけたい。
最後は、この世の豊かさと真の豊かさは別物である(19,20節)。
 金持ちであることが悪いことではない。豊作の結果、倉を拡張するのは賢明である。しかし、この金持ちが愚か者と言われたのは、たましいに対する無知と無関心と間違った彼の対処にあった。では、たましいに対する無知と無関心とは何か。それは、たましいの付与者が誰かを知らない、また知ろうとしないことである。次に、たましいに対する無知と無関心からくる間違った彼の対応とは、それは、彼は持ち物によって自分のたましいを満たし、喜ばそうとしたことにある。
 この世のいかなるものも、永久に自分のものにはできない。また、この世の富や財がいのちの源ではない。いのちの源は神にある。富や財そのものが悪いのではない、富や財の間違った価値観が、一度限りの大切な人生の歯車を狂わせてしまう。真の豊かさはとは何か。それは神から来るのです。ですから、どんな時でも、神に求め、神に信頼し続けて、有形無形(見えるもの・見えないもの)の祝福を神から受けることではないだろうか。