「死んでも生きる」ヨハネ11章7−27節 召天記念礼拝 2017.10.22 港キリスト教会

召天記念礼拝後の記念撮影

 2017年10月22日

  当日は、台風が近畿直撃の状況の中、第2回召天記念礼拝が持ちました。

 台風接近にもかかわらず19名の礼拝出席者となりました(主に感謝)。


『死んでも生きる』ヨハネ11章17−27節 召天者記念礼拝にて 

 日本には様々な死生観がある。ある新興宗教の死生観は、「人間は死ねば大宇宙の生命と一つとなる」と考える。また仏教では輪廻転生という死生観がある。 

 仏教の創始者である釈迦が80歳の時に、弟子たちが死後のことを聞いた時、「では比丘たちよ、私が言おう。この世のことはすべて過ぎ行くものである(諸行無常)。怠けずに努力せよ。」と答えたと言われている。釈迦自身も死について、あるいは死後の世界については分からなかった。

 では聖書は死と死後についてどう教えているのか。まず、死は罪によってもたらされた。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ書6章23節)それは、アダムとエバが神様の命令に聞き従わなかったことに罪の起源となり、しかもその罪は全人類に及んだ(ローマ書5章12節)。

 アダムとエバの罪の結果、人類は、永遠に生きるという祝福を失い、だれ一人避けることの出来ない死という種が蒔かれ、その刈り取りは死後である。その死後については、ヘブル書9章27節に、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている…」と書かれていて、人の死には二つの死があることを意味している。

 一つは肉体の死、もう一つは魂の死である。死後さばきを受けるとは、魂が死(霊的な死)ぬことである。死後の罪の刈り取りとは、神から永遠に離され、その魂の行先はゲヘナ(火の池)である。そのような恐ろしいさばきの場所に私たちが行くことがないように、この世界に来てくださった方がイエス・キリストである。
 
 罪のない神の御子キリストが罪ある私たちの罪の身代わりとなり、十字架で死なれ、死から3日目に墓からよみがえられた。このキリストの復活の事実は、イエスを信じた人は罪が赦され、永遠のいのちを持ち、死後天国に行けるという神の約束を確かなものとした。このイエス・キリストの恵みによる信仰をしっかりと堅持しよう。なぜなら、キリストを信じる者には、愛するイエスと先に天に召された人たちとお会いできるという希望があり、また恐ろしい永遠の滅びの世界に行ってはいけないからである!