「放蕩息子が気づいた真理(Ⅱ)」-真の自由とは- ルカ15章11-24節 1月28日(日)港キリスト教会

「放蕩息子が気づいた真理(Ⅱ)」-真の自由とは- ルカ15章11-24節

 人間にとって真の自由とは何かを、イエスのたとえから学ぼう。 

 まず第1に、放蕩息子は、外の世界に自由を求めて遠い国に旅立った。ところが、彼はその地で財産を湯水のように使い果たし、自由を得るどころか、むしろ、欲望と快楽の奴隷となった。さらに、その地を襲った飢饉のために、その日に食べることも困り始めた。パウロはテトス3章3節で、「私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、色々な欲情と快楽の奴隷となり」と語った。
 このたとえ話の中に、神から離れた人間の姿が描かれている。それは、人が罪によって様々な不幸を招いてしまった例証である。私たちが神のもとに立ち帰り、真の自由を得るまで試練が続くかもしれない。しかし、それは神のご配慮である。 

 第2は、放蕩息子は父の所に真の自由を見つけた。
彼は、心身ともに疲れ果て、飢え死に寸前であった。その時に「我に返った」。「我に返る」とは、リビング・バイブルで「やっと目がさめた。」と訳している。
 彼は、罪の中に生き、その結末の悲惨さを体験した時にはじめて、自分がどんな人間なのかを知り、彼が「もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」と言えるほどに、彼の心は自由にされていた。
 それは、お金や物、世の快楽や欲望によっては心が自由になるどころか、むしろ心を束縛するものであると知ったからである。つまり、このたとえ話には、神のもとに立ち返って、真の自由を手にする人間の姿が描かれている。

 この世に自由を求め、この世に心惹かれ、この世のためだけに浪費し尽くした放蕩息子の生き方の一部分が、私たちの中にもあるかも知れない。
 でも心配無用。放蕩息子が父の愛と赦しに気付くまで、そして、父のところにある真の自由を手にするまで、父が息子の帰りをいつまでも待ち続けたように、神様もまた、愛と恵み、慈しみとあわれみによって、人生に迷える私たちを待って下さる。神の恵み(十字架による罪の赦し)によって、クリスチャンは律法(ねばならない)による束縛から解放されて真の自由を得たことに感謝しよう!