「罪人に注がれたイエスの愛」―人が心を開く時― ルカ19章1−10節 2018/4/15(日)港

「罪人に注がれたイエスの愛」―人が心を開く時― ルカ19章1−10節 

  お金が第一、お金が頼りという取税人ザアカイの固い心を開かせたのは何か。
 第1はイエスの名指しである。ザアカイとは日本名なら義人、清人。まさに名前負けしていたザアカイは、エリコの町を通られるイエスをひと目見ようと木に登った。ちょうどイエスが通り過ぎようとされた時、「ザアカイ」と声をかけられた。友もなく、お金では満たされず、しかも人に愛されたいと心の渇きを持っていたザアカイ。しかし、イエスの愛のまなざしによる名指しはザアカイの固い心を開いた。

 第2は、急いで降りて来なさいというイエス招きであった。もし、イエスの招きに応じないなら取税人のままで、孤独で、空しく、満たされない人生が続いた。でもイエスの招きに答えて木から降りた結果、彼の人生は新しい方向に向かった。神の言葉(みことば)を示されても、一歩踏み入れる(従う)ことを躊躇することはないだろうか。あるいは、良くないと思いつつ、いつまでも同じ場所に留まり、そこから降りられない(抜け出せない)ということはいないだろうか。ザアカイのように、主の言葉に聞き従い、新しい一歩を踏み出す勇気を持ちたい。

 最後は、あなたの家に泊まりたいというイエスの計らいであった。「今日は、あなたの家に泊まることにしてあるから」と聞くと、ザアカイは急いで降りて来て、大喜びでイエスを家に迎えた。ところがこれを見た人々は、罪人と食事をし、しかも宿を取られたイエスを非難した。人々の非難の的となられたにも関わらずザアカイの家に泊まられたイエスに、「主よ。ご覧下さい。私の財産の半分を貧しい人に施します。だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」と応答した。ザアカイの回心は、罪人の家であることを承知で宿を取るという特別な計らいから、イエスの普遍的な愛と先行的な赦しを体験したからではないか。

 その愛と赦しは、私たちの代わりに罪の罰を受けられた神の御子キリストの十字架刑によって証明されたことを再確認し、そして感謝しょう!「あなたがたの罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取り除け、十字架に釘づけにされました。」(コロサイ2章13、14節)