12月30日(日)『整えられた者となるために』第二テモテ3章16、17節

『整えられた者となるために』
  第二テモテ3章16、17節 12年12/30
 私たちはしばしば祈りの時に、主よ整えてくださいという言葉を使うときがあります。ではこの言葉はどのような意味があるのでしょうか。
 聖書の中には「整える」という言葉はたくさん出てきますが、17節にも「整えられた者となるために…。」また第一ペテロ4章7節にも「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」
 この「心を整える」と訳された語は、「健全な判断」「きれいな心」というような意味合いが有ります。祈るためには、そういう心の状態を保つことに留意しなければなりません。 
そのためには、キリスト者の健全な判断と心を導く奥義書(聖書)を読み続け、確認し続けなければなりません。その心で祈ることによって力を得、また、その力がキリスト者を聖書の言葉に導き、良い循環の中に生きるのです。(引用文 講解メッセージより) 
 つまり、クリスチャンが整えられるために必要不可欠なものとは聖書であります。私たちが祈りにおいて、整えてくださいという時は、事がうまくいくように、あるいは事がうまく運ぶように(導かれるように)といった二ュアンスで使っているように思うのですが、この整えられるという言葉がクリスチャンに対して使われる場合は、その人が聖書を土台としたふさわしい信仰者になるという意味を持っているのです。
 さて、私たちはこの一年、聖書からどれだけ学び、教えられ、傾聴して来たでしょうか。
 けさ今一度この聖書こそが私たちクリスチャンの霊的成長になくてはならないものであることを再確認し、そして再確認するだけでなく、まもなく迎える新しい年に向けて、聖書によってさらに整えられた者になりたいという決心ができれば幸いであります。
 けさはこの箇所から、なぜ聖書は有益なのか。そしてなぜ聖書を読み、学ばなければならないのかということを学びましょう。
 まず第一は、なぜ聖書は有益なのかということです。
 それは聖書を通して私たちが歩むべき道を知ることができるからです。『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』(詩篇119篇105節)
 聖書は私たちの人生のナビゲーターの役目を持っています。人は誰でも間違った人生を選択したくありません。正しい道を歩みたいのです。にもかかわらず、時として思いもよらない方向に進むこともあるのです。
 私たちは、これでいいのかと心配したり、間違った歩みをしているのではないかと不安な思いを持つことはないでしょうか。あるいは大きな決断をしなければならないときに、何を基準にして、あるいは何を根拠にして決断するでしょうか。
 もちろんクリスチャンは神様のみこころを大切にしなければならないのですが、実は神様のみこころを知るというのは決して容易なことではないということを常々経験しているのではないでしょうか。そのようなときに、聖書から神様のみこころ知るというのは信仰の基本であります。
 『昔イスラエルでは、神のみこころを求めに行く人は「さあ、予見者のところへ行こう」と言った。今の預言者は、昔は予見者と呼ばれていたからである。』
 (サムエル第一9章9節)
 まもなくイスラエルの初代の王になる直前、サウルが雌ろばを探しても見つからなかったために帰ろうとした時に、共の者が予見者サムエルのところに行って雌ロバを探してもらうことを提案したのです。その時に、サムエルは雌ロバのことよりも、サウルがイスラエルの王になることを予見したのです。預言者とは神のことばを預かるものです。
 今日の時代においては、神様がくださった聖書であります。聖書から大切な神様のみこころを知ることができるのです。そのことを具体的に書かれているのが、16節の教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益であるというものであります。
 まず「教え」とは何でしょうか。それは生活の指針に関する教えであり、家庭についての教え、人間関係についての教え、社会や国家についての教えといった人生に関わるものについての教えであります。
 神様の教えをしっかりと学び、従うことによって正しい生活指針を持つことができるのです。新しい年も、このみことばを頼りに、神様に喜ばれる祝福される生活を送りたいものです。
 次に「戒め」とは何でしょうか。それは聖書を通して、間違った行為や良くない思いの中に罪意識を起こさせるのです。つまり聖書は、人の罪に気づかせる役目を持っているということです。 
 かつて大韓民国北朝鮮工作員に飛行機が爆破されたときに、工作員金賢姫が逮捕されました。その後、特赦によって死刑をまぬがれたのですが、彼女は獄中においてクリスチャンに出会い、そして聖書を通して自分がしたことは正しいと思い続けていた(洗脳)のですが、聖書を通して、自分が犯した罪の恐ろしさに気づき、イエス・キリストの赦しを求めたのです。そして、とうとう神様の救いに預かったのです。
 彼女の言葉です。「死ぬことよりも、生きることのほうが大変な中、神はすべてのことを明らかにするために、また神の愛を多くの人に証しするために、私を用いてくださったと悟ったのです。」
 『律法によって、かえって罪の意識が生じるのです。』(ローマ書3章20節)
 また、詩篇の著者は、『あなたに罪を犯さないため、私はあなたのことばを心にたくわえました。』(詩篇119篇11節)
 新しい年も、このみことばを心にたくさん蓄えていきましょう。
 次に「矯正」とは何でしょうか。これは正しくするという意味があるのですが、間違った生き方や、間違った考え方を矯正するためには、正しいものとは何か、あるいは何を正しさの基準とするのかが大切になるのです。 
 『人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。』(箴言14章12節)
 かつて第二次大戦において教えられたことを本気で正いいと信じて、日本の国のために命をささげていった多くの日本人がいたのです。軍国主義を美化し、正当化して、戦争の大義名分を掲げたのです。しかしその道の終わりは死の道であり、滅びの道であったことは誰しも認めることであります。
 『人は心に自分の道を思い巡らす、しかしその人の歩みを確かなものにするのは主(神)である。』(箴言16章9節)
 神様抜きの愛国心、神様抜きの国家形成はいつしか陰りが来るのです。まさに中国の国家路線の将来においてその様相を見るのです。私たちも日本が正しい方向に進むように祈りましょう。そしてまことの神を恐れる国となるように祈り続けましょう。
 最後に「義の訓練」とは何でしょうか。それは悪いことをしないように生きる、あるいは、罪を犯さにように生きるといった消極的な生き方ではなく、より積極的に神様の義を求めて生きるためにみことばによるトレーニングに預かることは、非常に有益であるということです。
 スポーツ選手がより成績を上げるためにどれだけ訓練を積むことでしょうか。いかなる選手もトレーニングなしで強くなることはないのです。クリスチャンもこのみことばを実践することによって、訓練されて、整えられていくのです。
 時には、みことばに聞き従いながらも挫折や失敗を経験しながら成長して行くのです。 
 『主はあなたを訓練するために天から御声を聞かせ、地の上では、大きい火を見させた。その火の中からあなたは、みことばを聞いた。』(申命記4章36節)
 主の訓練を軽んじないようにしましょう。主はあなたを祝福するためにみことばを通して訓練されるのです。
 最後に大きな二つ目のことは、なぜ聖書を読み、なぜ聖書を学ばなければならないのかということです。
 聖書注解者バークレーは「聖書を研究するのは、自己本位からではなく、また自分の魂の幸福のためだけでなく、人は、自分が神様に対して役立つ者となるために、また隣人に役立つ者となるために、聖書を読み、学ばなければならない。そして自分の魂の救うためだけでなく、他の人々の魂を救い、その生活を慰めるように、神が自分を用いてくださるために聖書を読まなければならない。同胞が救われるために、まず自分の魂が燃えない限りは、だれも救われることはないのである。」
 まさにみことばによって整えられた者となるのは、教会を建て上げるためであり、そしてひとりでも多く方が神様の救いに導かれるためなのです。
 冒頭に話しましたが、私たちはしばしば祈りにおいて整えて(良い状況になるように)くださいと祈るのですが、まず自分自身が整えられる者になれるように、新しい年もみことばを読み、学び続けていきましょう!
 そして共々に主に整えられて参りましょう!
 『一日のうち、どこかで触れようみことば。
  交わろう主と。』