「良い人間関係の土台」 14.7/25(日)    エペソ4章25−27節

「良い人間関係の土台」 14.7/25(日)
   エペソ4章25−27節
 昨年、資産家夫婦が殺害されたというニュースがありました。この資産家であったご主人は、人のお金を預かって株などの投資によってお互いに利益を得るという仕事をしておられたのです。あるときに投資の失敗によって、お客様が大きな損失をこうむりました。そのことを恨み、幾人かと共謀して資産家夫婦の首を絞めて殺害したのです。お客さんが利益を得ているときは、両者とも非常に良い関係であったと思われます。しかしひとたび損失という事態になると両者の関係は一転非常に悪い関係になったのです。 
 このように利害関係で成り立っている人間関係にはもろさがあるという一例であります。
 では私たちが良い人間関係を構築しょうとするなら、何が大切なのでしょうか。けさのみことばの中に、教会においてクリスチャン同士が良い交わりをするためにパウロは大切なことを教えている箇所ではないかと思います。
 まず25節から見ましょう。ここでは人間関係において大切なことは、偽りを捨て、真実を語ることであると勧めています。良い人間関係を構築するためには、お互いが真実でなければなりません。
 パウロはこのような勧めをしなければならなかった背景には、通常は理解しがたいことですが、クリスチャン同士の中で偽りがあったからです。
 もちろん真実を語るということにおいて、私たちはすべてのことを明らかにして話しているわけではなりません。
 あるいは心の中のすべてを打ち明けているわけではないのです。いくらクリスチャン同士であってもお互いのなかに言えないこともあるでしょう。あるいは人によって言えることと言えないこともあるというのは当然のことです。
 確かにクリスチャン同士であってもその関係は一律ではないのですが、それでも大切にしないといけないことは、お互いが真実を前提にして交わっているということです。
 パウロはお互いが真実な関係にあるということを視聴覚的に説明しているのが25節後半であります。「私たちは体の一部分として互いにそれぞれのものだからです。」と私たちの関係を、人のからだにたとえて説明しているのです。
 からだが機能的に動くためには、各器官がその役割通りに働かなければなりません。もしどこかの器官が間違った動きをするならからだ全体がおかしくなるのです。各器官は密接な関係で成り立っているのです。
 ちょうど兄姉の関係もからだの各器官の関係と同じように、密接な関係であり、親密な関係であるということであります。まさに、ごく小さながん細胞は少しづつ大きくなって、からだ全体の機能を狂わせてしまい、やがてはその人の命をも奪ってしまいます。
 同様にごく小さなうそ偽りであっても、やがてそれはお互いの関係を蝕む悪い細胞となるのです。
 ヤコブは母リベカと共謀して兄のエサウを騙しました。この兄弟間係が修復するまでどれだけ多くの時間を費やし、そればかりではなくヤコブは自責の念で苦しみ続け、エサウは弟のヤコブをうらみ続けるという負の心の重荷を両者ともに背負い続けたのです(創世記27章)。
 まず第1に真実こそ良い人間関係(交わり)の土台となるのです。
 私たちのお互いの交わりによる関係はいかがでしょうか。実はお互いを知れば知るほど、あるいはお互いの距離が近くなればなるほど、お互いのマイナス点を発見することもあるのです。あるいは嫌な所も気づき始めるかも知れません。
 それでお互いの関係が終わるのでしょうか。もしそうなら、それはクリスチャン同士の真実な交わりと言うにはほど遠いものではないでしょうか。
 パウロが言っているように、もしクリスチャン同士の関係がからだの各器官であるなら、お互いがいたわり合う、そしてお互いが無くてはならない密接な関係にあることを覚える必要があるのです。 
 とはいえ、週に一度しかお会いできない状況において果たしてパウロが言う関係を構築していくというのはかなり難しいことかと思われます。
 よって表面的な関係、浅い関係、形式的な関係になりがちな状況において、お互いの関係が親密に保てる策はあるのでしょうか。
 それはとりなしです。その人のために祈ることはその人に関心がなければ、あるいはその人への思いやりがなければ、そして愛がなければ祈れないはずです。祈りは偽りから守ってくれる真実な行為なのです(エペソ6章23、24節)
 次に26節を見ましょう。
 ここでは怒りについてであります。この怒りもクリスチャンには似つかないものように思えるのです。
 しかしパウロがここで言う怒りとは、理性を失ったコントロールが効かなくなった怒りの感情について言っているのではないのです。
 第2は自己抑制を持つことが良い人間関係を保つ秘訣なのです。
 この26、27節を他の訳で見ますと、『怒りなさい(命令形)。でも罪を犯してはならない。』あるいは『心に怒りが起こっても、それを行いに出して罪を犯すな。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。』さらに『悪魔に席を与えるな。』『足がかりを一切残しては成りません。』と意訳しています。
 ここでパウロが強調していることは、怒ることは罪ではないが、しかし往々にして怒りが転じて、容易(悪魔に隙入られて・席を与えてしまって・足がかりを残した結果)に罪を犯すことがあるから要注意と言うことなのです。
 ここで怒りというテーマが語られているのには、もちろん人間関係という文脈の中であります。場合によっては、その人のために怒りが必要であるからです。 
 なぜなら、それに(怒られたこと)よってその人が、気づき、自省、悔い改めて、そして矯正から成長に向かって行くのです。ここでもう少し怒りについて聖書から学んでいきましょう。
 聖書の中には神様の怒りがしばしば出て来ます。なかでもイエス様の怒りは私たちに強い印象を与えるものです。いや衝撃的といってもいいのかもしれません。 
 それはヨハネ2章14-17節に書かれています。エルサレムの宮で、通りで商売をしていた人々に対して、憤りを覚えられ、細縄でむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒されたのです。神の宮を商売の巣にしてはならないと怒られたのです。
 この怒りは義憤と呼ばれるものです。正義が曲げられ、不正がまかり通る、正しい者が虐げられる。弱い者が痛めつけられることに対して、単なる感情の爆発ではなく、理性を失わないで、自己抑制される中で、そして憎しみを持ってではなく、すべの人を愛するという心は変わることなく彼らを怒られたのがイエス様なのです。
 モーセに関しては、正しく怒った時と、激情して怒った時がありました。レビ人コラが他の者と共謀して、モーセの兄アロンを非難し、モーセに逆らったときに、モーセは激しく怒って、主に申し上げたのです。その結果、コラに属するすべての者を滅ぼされました。モーセの激しい怒りは正しいものだったからです(民数記16章15節)。
 ところが、荒野にて水がないとつぶやく民に苛立ち、神様が岩に命じれば、岩は水を出すと言われたのに、モーセは激情して怒りつつ、彼の杖で岩を二度打った。するとたくさんの水が出てきたのですが、主はモーセとアロンに言われたのです。
 『あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはない。』
 このようにモーセの激情した怒りの結果、モーセとアロンは神の約束の地には導き入れられることはなかったのです。
モーセであっても自己抑制の困難さが伺えるのです。
 イエス様のように、常に正しく怒ることは至難の業と言えます。しかし怒りは正しく用いられれば、建徳的な状況を生み出しますが、不正に用いられれば、攻撃的で、破壊的な状況を生み出してしまうのです。
 怒りは争いを招く:箴言15章18節『激しやすい者は争いを引き起こし、怒りをおそくする者はいさかいを静める。』
 怒りは交わりを奪い去る:箴言22章24節『怒りっぽい者と交わるな。激しやすい者と一緒に行くな。』
 怒りは祈りの生活を妨げる:第1テモテ2章8節『男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。』
 怒りは人間関係を損ない、怒りは神との良い関係を壊してしまいます。
 このように正しい怒りは良い結果を刈り取りますが、不義なる怒りは悪い結果を刈り取るのです。
 ヤコブは警告しています。『愛する兄弟たち、されでも聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは神の義を実現するものではありません。ですから、すべての汚れやあふれる憤りを捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。』ヤコブ1章19-21節
 けさは良い人間関係の土台というテーマですが、二つの大切なことを学びました。それは、真実は良い交わりを続けるための秘薬であり、不義なる怒り、不当な怒りは良い交わりを損なう毒薬なのです。
 そして十字架につけられたイエスのうちに真の赦しと愛と慈しみがあるのです。罪ある者が正しい人間関係を構築するためには、キリストに学ばなければならないのです。ですから、パウロは4章21節で『キリストに聞き、キリストにあって教えられているのなら』と勧めています。これはクリスチャンにとって必須科目なのです。