『教会を建て上げる』14年7月13日(日)  エペソ4章11−16節

『教会を建て上げる』14年7月13日(日)
       エペソ4章11−16節
 およそ人の集まりには何らかの組織機能が必要となるものです。町内会には自治会長が代表的な立場となり、学校には校長やPTA会長が置かれ、また会社ならば会長や社長をトップにした組織なしでは機能することは不可能です。もちろんキリスト教会にも組織があるのです。
 ところがけさの聖書箇所を見ますと、世の中にある組織とは異なる教会の組織形体を見ることができるのです。
 特徴的なものとしては賜物による教会形成であります。けさの聖書箇所には賜物という言葉は出てこないのですが、11節の「こうして、キリストご自身が」という言葉は7、8節の賜物に関しての説明を受けて、11節から16節でいかに教会を建て上げるかについて書かれているのです。
 たとえば、11節を賜物ということばを使うなら、キリストご自身が使徒預言者、伝道者、牧師、教師としての賜物を与えられてと説明するとわかりやすくなるのです。 
 そしてキリストがそれぞれの人たちに賜物を与えられた目的は、12節にあるのです。この12節はLBでは『キリストのからだ(教会)を建て上げるために、役立つ奉仕ができるように聖徒を整える』と訳されています。
 つまり11節の指導者たちの重要な役目とは、聖徒を整えることです。
 この整えるとは、(ふさわしい者)新約聖書では、壊れたものを繕う、壊れたものを元の姿に戻すという意味があるのです(医学用語では折れた骨を元通りにする)。
 マタイ4章21節にそのことばが使われているのです。『イエスの兄弟ヤコブヨハネが、父ゼベザイと一緒に舟の中で網を繕っているのをご覧になり、二人をお呼びになった。』
 この言葉は他には、罪を犯した人が、霊的健康を回復することなどに用いられているのです。ガラテヤ6章1節では、『柔和な心でその人を正してあげなさい』と訳されています。
 この「整える」という言葉の意味をまとめると、「キリストへの信仰で欠けているところがあれば、それを補い、主のみこころにかなった姿に仕上げていく働き」という意味であります。
 次に13節では、教会において賜物を与えられた指導者によって信徒が整えられて、その行き着くところは、つまり最終ゴール(目標)は、信仰において大人になることです。 
 そして信仰の大人とは、信仰の一致と知識の一致に至る状態のことをいうことです。
 では、信仰の一致とは、また知識の一致とは何でしょうか。またなぜ大切なのでしょうか。
 ここでは、神の御子に関する信仰の一致と知識の一致と解するのが良いと思われます。  イエス・キリストを頭で理解して知るというよりも、イエス・キリストを信じた結果、そのお方との霊的な交わりを通して体験的に同じ神を知ることです。それは、信仰者の一致を生み、霊的な一致となるのです。それは信徒同士の一体感となるのです。
 もし教会にこのような一致があるなら、教会内における疎外感や孤立感から守られるはずです。
 この世の中では大勢の人々の中にいても、孤独感や疎外感を持つというのはよくあります。もちろんその人自身の人格的な問題によって孤独な存在になる、あるいは疎外感を持つということはあります。
 しかし教会はひとりでも孤独感や疎外感を持つことのないように心配りをしなければなりません。それはイエスの生涯から学ばなければならないのです。
 イエス様は、人々から嫌われ、孤独感と疎外感を持ちながらお金持ちになることを人生の生きがいにしていたザアカイを呼び止められて、彼の食事の招きに答えられたのです。その結果ザアカイは心改めて、悪徳な取税人から誠実な取税人と変えられたのです。
 このようにイエスへの信仰は人を変える力を持っているのです。イエスを知ることは、真実な生き方を選び取る動機付けとなるのです。
 信仰と知識の一致は、人を大切にします。そして人を生かすパワーとなるのです。
 次に14−15節は、なぜ信仰の大人になる必要があるのかというその理由について語られているのです。この2節には二つの理由があります。
 14節は消極的な理由について、15節は積極的な理由について説明であります。 
 まず14節の消極的な理由とは、偽りによって真理を見失わないためです。
 子どもではなくとは、信仰のおとなという大人と対比されているというのは言うまでもありません。ここでの子どもとはどういう子どもでしょうか、子どもの良い点は素直であることですが、それゆえに弱点もあります。それは物事の善し悪しの判断能力が劣るのです。
 ですから親のしつけ次第で、良い子にもなれば悪い子にもなるのです。
 14節の悪巧みとは、サイコロを匠に扱う賭博師という意味があるのです。賭博師は人をごまかすことにたけています。また人を欺く悪賢い策略とは、ねずみに罠を仕掛けるという情景を思い浮かべることができます。
 あえて信仰の子どもという言葉を用いることを許されるなら、信仰の子どもゆえに、人の悪巧みや、策略という悪い教えの影響を受けて大きなダメージを受けてしまうのです。
 まことの神様を知るクリスチャンたちを、常日頃信仰の破船に至らそうと企んでいる、あるいはその信仰を惑わそうと企んでいる者がいることを忘れてはいけないのです。
 言うまでもなくサタンであり、悪霊たちです。ペテロは『身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを探し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい』(第1ペテロ5章8、9節)と警告しているのです。
 しかし信仰のおとなであるなら、それらを見抜く力を備えており、振り回されたり、弄ばされるということはないのです。
 もちろんいかなる教会においても、信仰のおとなばかりではなく、信仰の子どももいます。
 しかし信仰の大人であるクリスチャンによって、信仰の子どもたち(幼子たちも)が守られるのです。また守ってあげなければいけないのです。くれぐれも、信仰の幼子、あるいは子どもたちを批判したり、さばいたりしてはいけないのです。むしろその人たちの守り手であり、信仰の成長のための協力者でなければなりません。
 次に15節の積極的な理由とは、キリストの似姿になることを目指すためです。
 クリスチャンが真理を語る理由は、つまりその動機は人を陥れるためではなく、人をキリストの救いに導くためです。それはキリストを知らない人が永遠に滅びないようにという同情心以上の思いから来るものです。
 そして、神様の救いに預かったクリスチャンは神様の愛を体験するのです。その愛こそが、人々が永遠に滅びることを悲しみ、憐れみ、なんとか救われて欲しいという動機をもたらすのです。
 つまりクリスチャンが成長し、成熟して行くということは、宣教の実を結ぶためには不可欠な課題であるということなのです。
 そして16節では、健全な教会とはどのようなものであるかが語られているのです。この箇所では、世の中にある組織とは全く異なる形体の教会形成を見ることができるのです。
 特徴的なものとしては賜物による教会形成であります。
 11節から16節では、いかにして教会を建て上げるかについて書かれていると語らせていただきました。
 ですから内容の流れからすると、16節は結論的な部分ではないかと思われます。先ほど健全な教会という言葉を使いましたが、もっと砕いて言うなら健康的な教会とはどのようなものであるのかということです。
 それゆえにパウロは、からだ全体はという言葉を用いているのです。私たちの体は、個々ばらばらではなく、全て繋がって出来ているのです。
 私の家は自転車屋でした。当時自転車は組み立てて売っていたのです。ですから部品で届いた自転車は組み立てなければなりませんでした。時々私も父に教えてもらって、組み立てる手伝いをしました。ところがあるときに、やっと組み立てたのですが、小さな部品が残っていたのです。これぐらい大したことがないと思ったのですが、父はその部品を付けるために、私が組み立てた自転車を再び分解し始めたのです。
 ほかにもあります。私がお客さんの自転車修理が終わったのですが、ネジについている小さなワッシャーをつけるのを忘れたのです。やはり父は始めからやり直したのです。置き去りにされた自転車のごく小さな部品が残されているなら、その自転車の安全性は保証されないのです。
 教会につながる一人ひとりが、大切であり、何らかの役目を持ち、役に立たない人は誰ひとりいないのです。
 つまり健康的な教会づくりは、手間が掛かり、時間が掛かり、忍耐が求められ、相互の愛が試されるのです。何よりも神様の助けを必要とするのです。
 そして健康的な教会づくりの一番の妨げとは、私一人ぐらいという思いです。主に喜ばれる教会形成のために信徒一人一人が必要とされているのです。 
 ひとりひとりがジグゾーパズルの1ピースのようなものです。最後の一ピースが足りないなら、いかにすばらしい絵画であっても完成できないのです。ひとつのパースがなおざりにされたジグソーパズルは、いかにすばらしい絵画であっても未完成であり、価値がないのです。
 主は言われたのです。『わたしの目には、あなたは高価で尊い。』(イザヤ書43章4節)