『信仰によって守られたモーセ』   出エジプト記2章1−15節  2015.1.25

  『信仰によって守られたモーセ
     出エジプト記2章1−15節  2015.1.25
『備えあれば憂いなし』は中国の古いことわざです。前もって備えていたことによって、様々な災いや危険を回避することができるのです。あるいは前もって備えておいたことによって、物事がスムーズに行くのです。
自分の人生を大切にする人は、備えておくべきことに注意深いのです。また自分の人生を有意義なものとしょうとする人は備えることを怠りません。
 さてけさのみことばの内容の中心は、モーセの誕生と養育、そして成人という、やがてイスラエルの指導者となるための大切な準備期間、つまり備えのときであります。
それは神様が備えてくださった期間であり、その期間を生かせるか、あるいはその期間を無駄にしてしまうかは当時の人々にゆだねられていたのです。
当時の人々とは、前回見ました助産婦たちもその一員でありました。彼女たちは神を恐れて、ユダヤ人から生まれる男の子を生かしておいたのです。
その結果、やがてイスラエルの指導者となるモーセがこの世に生を受けることができたのです。それは助産婦たちの主を恐れる信仰によって、神様が備えてくださったチャンスを生かすことができたのです。
 けさのところは、モーセの両親と娘のミリヤムであります。この両親は、6章20節によるとアムラムとヨケベデでありますが、この両親の信仰によって、モーセは守られたのです。
 けさの箇所には信仰という言葉はありませんが、ヘブル書11章23節で両親の信仰について垣間見ることができるのです。「信仰によって、モーセは生まれてから両親によって3ヵ月間隠されていました。彼らは、その子の美しいのを見たからです。彼らは、王の命令を恐れませんでした。」
 「その子の美しいのを見た」とは、使徒の働き7章20節では「彼は神の目にかなっていたかわいい子で、3ヶ月間父の家で育てられました。」とかかれているのです。
 神を恐れ敬うこの両親は、赤子のモーセを見たときに、普通の子ではないと直感したに違いありません。それは信仰の目によるものではなかったでしょうか。
 遠い国から黄金、没薬、乳香を携えて、赤子のイエスを拝した東方の博士たちもまた信仰の目で、赤子のうちに神の臨在を見て、へりくだり、賛美することができたのです。
 私たちも信仰の目で物事を見るというのは大切なことです。現状は厳しいが、やがて神様は祝福に変えてくださると信仰によって事象を捉えることができる人は幸いです。
  なぜこのようなことになるのか、なぜこんなことが起こるのかということが続いてしまうと、おのずと信仰は試され、振るわれてしまうのです。
 しかしみことばは、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ書8章28節)
と語ているのです。
 信仰とは、まだそのようになっていない状況のなか、みことばの約束は必ずなると信じて待ち望むことです。
 モーセの両親は、信仰の目でモーセを生かしておいたのです。神様がこの子を守ってくださるという信仰を抱くことが、親としての責任を果たすことでもあったのです。
 モーセの両親が神様を恐れるという信仰を持つことがいかに難しい時代であったかは、当時の奴隷であったイスラエルの民の状況を見れば推し量ることができるのです。
 そもそも300年以上も前にイスラエルの民がエジプトに移り住んでのち、エジプトでの寄留生活はイスラエルの民にとって悪い影響をもたらしたのです。
 またエジプトの偶像崇拝の影響も受けたことでしょう。唯一神が損なわれていく悪い環境のなかで、神を恐れ、信仰を守り通していくというのは決して容易ではなかったと思われます。
 しかしモーセの両親の信仰は保たれていたのです。そしてそのような両親の信仰によって、モーセは神の器となるべき道順を着実に歩んで行くこととなるのです。
「神が選ばれたへブル人は、今やエジプトの奴隷となっただけでなく、エジプトの神々の奴隷にまで落ちていったのです。だれが見ても最悪と思われるような時に、神の御手が、神を信じる小さな普通の家庭に、やがてエジプト脱出の指導者となるモーセの誕生を備えておられたのです。」
 「人間にとって最悪と思われるような時に、神の御手があるのです。そして神様がそのような時に用いられる人とは、必ずしも能力が長けているとか、あるいは特別な人であるとか、それにふさわしい人であるとは限らないのです。むしろ神に己をささげている人である。」
 そのように賞賛されても良い両親の信仰に立ち向かう出来事が、王の容赦ない、無慈悲な命令であります。隠しておいた子が成長することは親にとっては嬉しいことであっても、それはまさに王にとっては激昂の材料であったのです。
 隠し切れなくなってと3節にあります。信仰によって行動してもなお妨げられるものが起こります。信仰は常に敵の攻撃を受けるものです。まさに、信仰は戦いと言われる由縁であります。
 信仰生活に絶対安心はないのです。信仰は常に試されるものです。そしてこの世は、私たちの信仰に挑んできます。いつも神様の守りと助けが必要なのです。
 ですから常に祈る必要があるのです。もし信仰によって歩むことを放棄するなら、あるいは信仰によって歩むことをおろそかにするなら、敵はその人に挑むことはないのです。挑む必要がないのです。
 言い換えるなら、信仰生活に色々なことが起こってくるのは、信仰によって歩んでいるからです。あるいはそのように心がけているからではないでしょうか。
 さてここでモーセの両親の信仰について、もう少し詳しく見て行きましょう。
 第1に、両親は、その信仰によって、可愛いわが子のモーセの将来を神様に全く託すことができたのです。
 第2に、両親は、その信仰によって、モーセの将来を神に期待することができたのです。
 その結果、モーセはエジプトの宮廷において、この世の栄誉という魅力的なところで、多くの誘惑がある中で、またいかなる快楽も手にすることが可能なところでモーセは、高い学問を身に着け、将来イスラエルの指導者となったときに必要なものをすべて身に着けていったのです。
 そのことを知るすべもなく、パロ王はモーセ帝王学を教えていったのです。もちろんその背後には神様の導きがありました。そしてご計画も、助けもあったのです。それは神の摂理と言うものであります。
 ありえない状況にこそ、神の御手が差し伸べられるのです。私たちの力が及ばないと所にこそ、神様の力が現れるのです。
 私たちの力でできることを信仰によると言っていはないでしょうか。あるいは、自分が成すべきことを怠って、神様どうか助けてくださいと祈ることが信仰と思っていることはないでしょうか。
 なすべきことを果たしてなお、不測の事態のときに神様により頼むことが信仰です。
 少年モーセが宮廷に引き取られたのちに両親はモーセのことを思って、毎日どれだけ祈ったかは想像することができるのです。両親の祈りによって、モーセは異国の環境においても、偶像神から守られ、精神の堕落から守られたのは、両親の熱いとりなしの祈りではなかったでしょうか。
 祈りは手の届かないところに、その願いや思いが届けられるのです。ですから我が子の救い、両親の救い、伴侶の救いのための祈りの手は決して下ろすことなく、神様に明け渡して、神様に期待して祈り続けましょう。
 第3に、モーセは、その両親の信仰に守られて、自分の将来はエジプトのためではなく、イスラエル人のために生きることを選択することができたのです。
 「信仰によって、モーセは成人したとき、パロノの娘と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。」 (へブル11章24節)
 その彼も始めから、信仰者として立てられたのではありませんでした。12節:ある時に同胞のへブル人が、エジプト人に打たれているのを見て、彼は力づくでへブル人を助けようとしました。
 しかし、それは神の意図することではありませんでした。モーセは神の時を待たずに、勢い余って行動してしまったのです。
 その結果、モーセは自国の民にも不信感を抱かれ、パロに命を狙われる羽目になりました。
 人間的な熱意も大切ですが、神の時を逸したものは、良い結果が伴わないのです。特に一時的な熱心さは要注意です。
 いかに熱意があったとしても神様の思いとはかけ離れたものでは、その熱心さは長続きしません。
 将来民の指導者となるためには、モーセの信仰はなお訓練が必要であったのです。そのために神様がモーセのために備えられたのが、ミデヤンの地でした(15節)。16節以降は神様によるモーセの訓練について学んでいきましょう。
本日のまとめとして
信仰は、今すぐに結果を得ようとあせってはいけないのです。今日の時代はすべてが結果オーライではないでしょうか。
 その人がなしてきた結果だけを見てすべてを評価されるという傾向があるのです。でもそこに至ったプロセスを見てくださるのが神様でないでしょうか。
 神様に祈り、神様の導きと信じて来たのにもかかわらず、その結果が思わしくないことがあります。そのような時はまた祈り続けて、やり直せばいいのです。
 神様は真実なお方です。神に信頼するものを損なわれるようなことはされません。一時的そのように思うこともあってもであります。
 神様は必ず責任を取ってくださいます。ただし私たちがしっかりと神さ様を見上げて歩んで行かなければなりません。
 御子さえ惜しまずに与えられた方が、信仰による子どもたちを見捨てられることはないのです。神が約束されたみことばをしっかりと握っていきましょう。