「モーセに現われた神」  −わたしは在ってある者−  出エジプト記3章1−14節  2015 2/8

      モーセに現われた神」
        −わたしは在ってある者−
       出エジプト記3章1−14節  2015 2/8

「人生は出会いで決まる」とよく言われます。私たちの人生においては、たくさんの出会いがあります。その人の人生をハッピーにしてくれる出会いもあれば、反対に、その出会いが人生を不幸にすることもあるのですが、一生において数々ある出会いの中でも、最高の出会いは何と言っても神様との出会いではないでしょうか。
 そしてけさは、モーセが出会った神様とはどのようなお方なのかをみことばから見ていきましょう。
 さて、お話しの舞台をモーセの時代に移しましょう。今からおよそ3500年前のお話です。モーセは40歳の時にエジプトから逃げ出して、ミデヤンの砂漠(山地?)で40年間過ごしていたのです。
 モーセは40年間もイテロの羊を飼っていたようですが(1節)、来る日も来る日も羊を飼うというのは、実に単調で退屈な仕事ではなかったでしょうか。しかも、羊を飼うというのは非常に忍耐が求められる仕事であります。 
 やがてイスラエル人を解放するリーダーとなるために必要とされる忍耐力は、40年間も羊を飼うという仕事を通して培われたのではないかと思います。
 人間的には、何の役にも立たない、あるいは無駄に思えるようなことであっても、決して無駄に、あるいは徒労に終わるということはないのです。神様の御手の中にある働きやわざであるなら尚更のことであります。
 パウロは『ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。』(コリント第115章58節)と語りました。
 さて、モーセは神の山と呼ばれていたホレブに登りました。そのときモーセは、柴は燃えているようですが、燃え尽きないという非常に不思議な光景を目にした直後に、燃える柴の中から神様の御声を聞くというすばらしい体験をしたのです。
 ではモーセが燃える柴のなかで出会った神様とはどのようなお方でしょうか
 まず第1に、誰ひとり近づくことができないお方であります(4−6節)。
 4節から、この方は目には見えないのですが、声は聞くことができたのです。ところが5節を見ると、その方が『ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。』と仰せられたのです。
 その地が聖なる特別な場所というのではなく、神様がご臨在しておられるゆえにその地が聖なる所になるのです。
 たとえば、私たちが今いる教会はどうでしょうか。奈良県磯城郡田原本町新木という場所は決して有名な地でもなく、街の中においても奥まった分かりにくい場所に位置している教会です。
 しかし聖書にはどう書かれているのでしょうか。エペソ1章22,23節で『神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』とパウロは語っているのです。
 まさに教会は神様が満ちておられる聖なる所なのです。
 では、『ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。』と仰せられた神様は、今日の教会にご臨在される神様と何か違いがあるのでしょうか。
 と言いますのは、アメリカの教会の多くは、くつのまま礼拝堂に入れるのです。MBの中にもそのような教会があります。しかし、モーセに現われた神様からすれば、くつのまま礼拝堂に入るというのは不謹慎極まりない行為と思われないのでしょうか。
 最近よく見かけるのは、イスラム教の礼拝堂において、くつを脱いで絨毯の上で敬虔に礼拝している光景ですが、そのようなことにはあまり意にしないのがプロテスタント教会のようですが、それには理由があるのです。
 たとえば私たちが臆することなく、大胆に神様の前に出られるようになったのは、イエス・キリストの出現によって、私たちは神様の前にためらうことなく、恐れることなく出られるのです。
 エペソ3章12節にどう書かれているでしょうか。『私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信を持って神に近づくことができるのです。』
 本来、私たちは神の前に出ることも、近づくこともできない罪深い存在ですが、イエス・キリストが天の父様との仲介者となってくださったゆえに、私たちはイエス・キリストへの信仰があれば、いつでもどこでも神様と交わることができ、語ることができるのです。
 人生において、超有名人と出会う機会はほとんどないと言っていいでしょう。でも神様と出会うという経験は他の何ものにも代え難い素晴らしい、最高の経験ではないでしょうか。
 神の御子イエス・キリストを信じることによって、モーセに向かって、近づいてはいけないと厳しく命じられたところの神様と交わりが可能となったのです。まさに恵みの時代の到来であり、その只中に生かされているのが私たちクリスチャンなのです。
  さて第2に、神様は人格を持っておられるのです(7−12節)。
 柴の中に現れた神様は、モーセにとっては非常に近づきがたいお方でありました。6節にあるように、モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠したのです。
 しかし、7節から神様はどのようなお方であるかを見ることができるのです。それは人格を持っておられるということです。
 私たちの国には、人の手によって造られた神々で満ちています。いのちのない、語ることのできない、答えることのできない、しかも、それはやがては朽ちていくものであります(参考:詩篇115篇5節、イザヤ書44章)。
 しかし7節から見ていきますと、モーセが出会った神様は、エジプトで奴隷となって苦しんでいるイスラエルの民の叫びを聞かれるお方です。しかも、彼らの心の痛みや肉体の痛みといった苦しみを分かってくださるお方なのです。そして、不当な扱いに苦しむ民をあわれまれたのです。
 同じ様に、どのような時であっても、またいかなる状況にあっても、神様は私たちのことをいつも見ておられるのです。そして助けてくださるお方です。(参照:詩篇33篇13—15節)
 燃える柴に顕現されたお方は、ご自分の威光や尊厳や偉大さを示すためにモーセに現れたのではなく、民の苦しむ叫び声を聞かれて御国から下られたのです。
 さらに、地上に来られたもうひとつの理由とは、8−10節にあります。それは、エジプトから奴隷の民を救い、モーセをカナンの地に民を導くリーダーとして召すためであります。
 神様は用意周到なお方であります。この日のために40年間モーセをミデヤンの地で訓練されていたのです。イスラエルの民が奴隷の苦しみから解放されるのに実に40年間もかけられたのです。
 私たちの信仰生活においても、神様の時を待つというレッスンがあるのです。「神様、これ以上待ち切れません。ですから自分の思うようにやります。」という時は、神様の時ではないことが多いようです。
 ところが、モーセは神様の時が来ていたにもかかわらず躊躇しているのです。11節です。『私は、いったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。』
 恐らくモーセはミデヤンの地で静かな生涯を送ろうとしていたのではと想像するのです。
 たしかに今日との寿命の違いがあるにしても、モーセはすでに80歳です。老後をゆっくりとミデヤンの地でと思うのは誰しも当然の選択かと思います。 
 しかし神様の召しは、人間の思いとは違うのです。
 一介の猟師達を、人の魂を救いへとすなどる人間に変えられたのです。あるいはクリスチャンを迫害することに心から賛成するだけでなく、熱心にその手伝いをしていた若き律法学者であり、パリサイ人であったパウロが、命がけでイエス・キリストを伝える炎の伝道者に変えられたのです。
 それは今日も同じであります。伝道者だけではないのです。イエスを信じるすべての人は神様に召されているのです。神の召しを受けた時は躊躇があるかも知れません。しかし神の召しには答えていきたいものであります。
 先週、信徒総会が終わりましたが、ある人は役員に。またある会の世話人や奉仕担当を引き受けてくださったのは、まさしく神様の召しによるものなのです。私がしなければ誰もいないからという事情があることも否めませんが、それ以上に神様からの召しに答えたいという思いを持ってこの一年主にお仕えしたいものであります。
 私たちもモーセのように躊躇することがあるかも、しかし、思いきって応答していきましょう(参照:第一コリント1章26−29節)。
 神様は人格をお持ちのお方でありますから、何かお考えがあって、また計画があって私たち一人一人を召されるのです。そのことでの様々な心配は不要なのです。12節にあるように神様は召された人を励ましてくださるお方なのです。
 最後は、そのお方は永遠の存在者です(13、14節)。
 モーセは燃える柴に顕現されたお方の名前を聞きました。そのとき神様は、「わたしは在って在る者である(I am who I am)と答えられたのです。
 ご存知のようにこの言葉はへブル語ではハーヤーです。それは存在する(ある)という意味です。存在していた。存在している。存在し続けるという意味です。
 聖書注解者のことばを引用しますと、「あらゆる事物の根源、神が他の存在に依存しない。独立性、永遠性を表すのに最も適した言葉が使われている。」ということであります。
 まさに、この世は栄枯盛衰であります。永遠に栄えた国もなし。永遠に栄えた都もなし。たとえその人の名が残り続けたとしても永遠に生きる人はいません。
 さて、今から70年前の日本は敗戦で、国力は壊滅状態でした。それから70年で本当に日本は目覚ましい復興と発展をとげたのです。そして世の中は大きく変わりました。最近では数ヶ月前に流行していたものはもうその影すらないという時代です。売れないものやお金にならないものはすぐさま消えさる運命であります。
 企業は、多くの利益を出すために新しい製品をどんどん開発していくのです。実に変化のめまぐるしい時代となりました。
 そのような中で人々の心は、不安やあせり、孤独感、寂しさの中にあるという人が多いのではないでしょうか。目に見える物に振り回されて、益々人は何のために生きるのかという本来の意義を見失って行く時代となって来ているように思います。
 ますますこの聖書のことばが必要な時代となって来たのではないでしょうか。
 最後に、今から3500前に『わたしはある。』とモーセに語られた永遠の存在者である主のおことばに耳を傾けましょう。
 『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばはとこしえに変わることはない。』
             (第一ペテロ1章24,25節)