『神様が見逃された死の災い』  −イスラエルの過越の祭りの始まり−    出エジプト記12章1−14節 2015年5月3日(日)

   『神様が見逃された死の災い』
 −イスラエル過越の祭りの始まり−
        出エジプト記12章1−14節 2015年5月3日(日)
 日本は明治5年(1872年)12月3日に太陰暦(月の運行)から太陽暦(太陽の運行)に切り替えられ、その日を1873年1月1日としました。これが、現在私たちが使っているグレゴリオ暦(うるう年で修正)です。
 今日でも中国で旧正月を盛大に祝うのは太陰暦の正月であります。台湾、韓国、ベトナムシンガポール、マレーシャなどの国も旧正月国民の休日となっています。
 暦に関しては国々によって異なるために非常にややこしいのですが、日本も明治、大正、昭和、平成と元号を使っていますが、年齢を勘定するには非常に面倒になってきております。
 さて、12章2節で神様が、この月を年の初めとせよと命じられました。この月とはニサンの月(バビロニア捕囚時代にバビロニアの月名を取り入れた)でイスラエルの暦ではアビブの月(13章4節)であります。
 ニサンの月は太陽暦では3月から4月に当たります。ユダヤ暦ではその月が日本でいう1月1日となるのです。
 ではなぜ神様がこの日を年の初めとするようにと言われたわけは14節に書かれているのです。
 それは、およそ430年以上続いたエジプトでの奴隷からイスラエルの民が解放されるという記念すべき日となったからです。  
 神様は、イスラエルの民を奴隷から解放するために、エジプト全土に9つの災いを下されたにもかかわらず、エジプトのパロ王は益々強情になり、イスラエルの民を解放しなかったのです。
 それで神様は、エジプトの初子、奴隷の初子、家畜の初子に至るまで死の災いを下すとモーセに語られたのです。
 しかし、神様は恐ろしい死の災いからイスラエルの民を守るために、モーセとアロンにある指示をされたのです。
 それは、主への過ぎ越しのいけにえでした。その方法については3−11節に具体的に記されているのです。  
 そこでイスラエルの民は、モーセとアロンの指示通りにいけにえの準備をしたのです。それはニサンの月の10日から14日の4日間でした。
 さて、けさは当時の過ぎ越しのいけにえが現在の私たちにとってどのような意義があるのかを学びましょう。 
 まず第1の意義について見ましょう。
 3-6節の過ぎ越しのいけにえの準備は、十字架のキリストを指し示していたのです。
 かつてアベルアブラハムが神様にいけにえをささげていたのと比べると、過ぎ越しのいけにえは、神様から非常に具体的な指示がなされていたのです。   
 それは、いけにえの種類、数量、質、時が具体的に指示されたのです。
 種類・数量:子羊(子ヤギ=当時イスラエルでは区別がなかったと言われている)一頭です。質:1歳で傷のないものと指示されている。
 いけにえとされた子羊は、やがて罪のいけにえとなられるイエス・キリスト〔神の小羊〕を象徴するものであります。
 そして傷のない(ターミーム)とは、完全な、あるいは体に欠陥のないという意味もあり、他の箇所では全き人、全き者とも訳されているのです。
 まさにイエス・キリストは全き人、完全なお方、罪のない、汚れのない義なるお方であることを象徴するものです。
 そして、時:ニサンの月の14日の夕方にほふるようにと時を指示されたのです。その日はエジプト全土に恐ろしい死の災いが襲う日でありました。
 イエス・キリストもまた聖書の預言通りに定められた時に十字架に付けられたのです。悪しき者たちが、ピラトの裁判の下でイエスを十字架刑に定めたのですが、それは神様が前もって定めておられたのです。
 主イエス様のおことばです。『この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。』 (ヨハネ19章28節)
 ニサンの月の14日の夕刻に子羊はほふられて血を流しました。それはまさに、ニサンの月の14日(諸説あり)にイエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなられて(いけにえに)十字架で血を流されて、いのちを捨てられたことを象徴するものであります。
 次に第2の意義についてです。
7節でほふられた子羊の血を家々の2本の門柱と鴨居に塗るように命じられたのです。これは、イエス・キリストが私たちの罪のために、十字架で血を流されたことを象徴するものです。この行為によって、13節に書かれているように、まもなくエジプト全土を襲う恐ろしい死の災いが、その血のゆえに通り過ぎた(パスオーバー)のです。
 当時、門柱や鴨居に血を塗ることによって、災いからなぜ逃れることができたのかイスラエルの民には分からなかったのです。しかし神様が命じられた通りに従うことによってイスラエルの民は災いから逃れたのです。
 それは、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で血を流されていのちを捨てられたことを信じることによって、罪が赦され、神の子どもとされ、罪の恐ろしいさばき(その刑罰とは永遠の滅び)から免れることのひな形なのです。
 多くの人は、難行苦行によって救いを求めるのです。あるいは、良い行いが天国に至る道と思っている人も多くおられるのです。また、人間の手で造られた神仏に手を合わせる行為によって神仏の恩恵を受けると思っておられる人たちもおられます。あるいは、念仏を唱えることによって成仏するというのが、多くの日本人の「救い」の概念ではないでしょうか。
 キリストの十字架の死がどうして神のさばきを免れるのかと多くの時間を費やして考えることより、神の言われたことば(みことば)を素直に信じて、神のさばきから免れませんか。
 最後に第3の意義についてです。
8-11節から幾つかの意義を見ることができるのです。
 聖書注解よりその意義について説明しているのです。
 8節-11節:「子羊が丸ごと食卓に出されたことは、主にある者がひとつ心になって交わることが出来るための象徴的行為。
 また種を入れないパンについては、パン種を入れたパンは腐敗しやすかった。それは道徳的腐敗を象徴していた。ささげもののパンには種を入れて作ることがないように禁じられていた(レビ2章11節)。 
 苦菜はエジプトにおける苦難を表したもの。
 11節はいつでも出立出来る身なりをして食する。緊張した雰囲気が良く表されている。後世は、自由の民であることを表すために、ゆっくりとした雰囲気の中で食事をすることを大切にするようになった。
 12節は、主による主権的なさばきの内容であります。徹底した子羊や食べ物のほふり方や食べ方の指示は、徹底した神様のさばきに通じるものであります。つまり神様は徹底したさばきのゆえに、徹底した儀式を要求されたのです。
 しかし徹底した儀式が恐ろしい死のさばきから逃れるというのは何という恵みでしょうか。」
 2000年に妻が再生不良性貧血の難病にかかった時の治療費の請求を見ました。最初の支払いがなんと400万円だったのです。でも請求金額には0という数字が書かれていたのです。難病指定で自己負担が免除されていたのです。その後の請求額も半端ではありませんでした。合計で1千万円は超えていたのです。難病(重症度によってことなる)は現在医学では直らないという理由から国からの恩恵があったのです。
 さて私たちの罪は、神のさばきから誰一人逃れることができないのです。それは自分の力では罪は治せないからです。  ですから神様のほうから、罪のいけにえとなられたイエス・キリストの十字架によって罪の問題を全て解決してくださったのです。
 永遠の滅びというさばきをもたらす罪の罪過を支払うことを免除されたのです。そのために私たちがすることは、その事実(恵み)を受け入れるだけなのです。
 イスラエルの民は、神様の指示通りにいけにえの備えをしたゆえに、恐ろしい死の災いを見逃していただいたのです。
 13、14節において、イスラエルの民から災いが通り過ぎたことを記念して過ぎ越しの祭りがその後3500年の今日も続いていること自体、イスラエルの民にとってはこの出来事がいかに重大で、重要で、意義深いものであるかを証明するものではないでしょうか。
 さて、私たちクリスチャンは、けさのところから、神様のみことばに従順にかつ忠実に従うことによって救われるということを学びました。
 今一度イエス様が賞賛されたローマの百人隊長の信仰を思い起こしましょう。
『主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをください。そうすれば、私のしもべはいやされます。』 
(マタイ8章8節)