『難局からの救助』 出エジプト記17章1—16節 2015年8月9日(日)

『難局からの救助』
出エジプト記17章1—16節 2015年8月9日(日)
 私たちの人生において「一難去ってまた一難」というような辛い経験をすることがあるかと思います。まさにイスラエルの民の荒野での経験そのものであります。
 17章1節を見ますと、イスラエルの民は、主の命令によりシンの荒野から旅立ち、旅を重ねてレフイデイムで宿営したのです。少し前に宿営したエリムは素晴らしいオアシスでした。そこでは民はのどを潤したのですが、レフイディムには水がなかったのです。そこで民はモーセにつぶやいたのです(3節)。
 思うように行かなくなるとすぐにつぶやく民です。そこで彼らのつぶやきから、つぶやきとは何かを考えてみました。
 1.つぶやく人の特徴とは、不利な状況や問題の発生(いわゆるトラブル)を常に人のせいにするという傾向があるのです(1、2節)。   
 幾百万の民が荒野で大移動するというのは大変なことですが、その大役として神様がモーセを選ばれたのですが、彼らはそのモーセを非難しているのです。 
 それは、水のない所に導いたことへの非難であります。ここでもう一度1節を見ましょう。全会衆は、主の命令によりレフイデイムに導かれたのです。
 その地に導かれたのはモーセではなく神様ご自身であります。つまり彼らは神様を非難しているのと同じなのです。
 もし、自分の身に何か大きな問題が発生した時に、私たちはどのような態度を取るでしょうか。
 荒野で試みられた民のように、だれかのせいにして、その人を責めるでしょうか。あるいは、神様は何を考えておられるのかと訝り(怪しく思う、疑わしく思う)、事のすべてを神様のせいにするのでしょうか。
 神様のせいにしたり、あるいは人のせいにしたりする前に、自分には問題がなかったのか、あるいは自分に責任がなかったのかと自省する心の余裕を持ちたいものであります。
 そのようにすれば、自分の主張や自分がしたことが正当なものであるかどうかを冷静に判断できるように思うのです。
 どちらにしても、つぶやくその時点で、すでにだれかのせいにして、自己を省みることをしないのです(できないのです)。
 アダムは蛇に誘惑されて、神様の命令を守らずに食べてはいけない実を食べてしまいました。それで神様から叱責を受けた時にエバのせいにしたのです。
 ところが創世記3章12節をよく見ると、「あなたがた私のそばに置かれたこの女が、、、、」と実はアダムは、まず神様のせいにしていることを見逃してはいけないのです。続いてエバは誘惑を仕掛けてきた蛇のせいにしたのです。
 自分の罪に対しては寛容で、人の罪に対しては手厳しいのです。それがだれしも持っている私たちの罪性ではないでしょうか。
 民はつぶやく前に、もし自分たちはどうなのかと心をたしなめる(良くない点に対して注意を与える)という心の余裕があれば、神様が喜ばれないつぶやきから守られたのではないでしょうか。
 2.彼らのつぶやきは、神様への信頼の足りなさから来たものと思われます(3節)。  
 民はのどの渇きを訴えて、なぜ荒野に私たちを導いたのですか、私や子どもたちや家畜を死なせるためですかとモーセに詰め寄ったのです。
 しかし、このところも冷静に考えてみるとすぐに分かることです。モーセが民や家畜が死ぬのを望むわけがないのです。
 まして、これまで民の救いのために、またエジプトからの脱出のために、神様はどれだけ民を助け、守り、導かれて来られたことでしょうか。にもかかわらず、彼らが信じている神様の認識度があまりにも低いのではないでしょうか。
 確かに彼らは、神様の大いなるみわざを彼ら自身の目で見て来たのです。
 しかしその体験が新たなる試練に対して生かされなかったのです。
 神様への強い信頼は、つぶやく前に厳しい状況について神様に聞き、そして祈り求め、神様からの導きを待ち望むことができるのです。
 ただし430年間もの長い間も神様から離れていた民であったのです。ですから彼らの信仰の成長のためにはなお多くの時間を要したのです。
 それで荒野における数々の事件やトラブルは、彼らの信仰の訓練の場となって行ったのです。
 さてリーダーであったモーセは、民のつぶやきを自分で負うのではなく、神様に訴えたというのはとても良かったと思われます。
 リーダーは何もかも自分が背負ってしまうという傾向があるのです。しかし、それは、遅かれ早かれ無理が来て、自分もつぶれてしまいます。そのことは18章13—26節において実証されているのです。
 4節を見ると、モーセは問題の解決のために、私が民のためになすべきことは何ですかと神様に尋ねているのです(what shall I do with these people?)。
 このモーセの態度から、私たちの人生においても、遭遇する難問題や試練の時に、自分ひとりでなんとかしょうとするのではなく、また神様に全てを投げるのではなく、神様と一緒に問題解決に取り組んでいく大切さを教えられるのではないでしょうか。
 さて、つぶやく民に対して神様は、モーセにナイルを打った杖で岩を打つように命じられたのです(5、6節)。
 そこで、モーセがその通りにすると岩から水が湧き出たのです。民がつぶやいたために、神様はその地をマサ(試み)、メリバ(争い)と名付けられたのです。
 神様は民を憐れんで水を与えられましたが、民のつぶやきを不信仰のしるしとして地名として残されたのです。
 ここでの教訓とは、私たちの信仰の歩みにおいても、神様が喜ばれなかったことを忘れてしまうのではなく、思い起こして学習(繰り返さない)することが大切ではないでしょうか。
 さて舞台は変わります。一難去ってまた一難です。私たちも信仰生活において、こういう経験はしばしばあるものです。水の問題が解決したかと思うと、また新たなるトラブルが起こって来たのです。
 ところが、次のトラブルは非常に危機的なものでありました。それはアマレク人が戦いに臨んで来たのです。
 先ほどは水のトラブルでした。そこでは祈り(4節)→行動(6節)→岩から水  
 アマレクとの戦いにおいては行動(9、10節)→祈り(11、13節)→勝利(13節)
 このところで、祈りについて教えられることは、祈りとは難しいことではない、単純に祈れば勝利して、祈らないなら敗北であるということです。
 私たちは信仰生活だけでなく、日々の営みにおいて祈りは不可欠で、重要で、欠かしてはいけないものであることは重々承知しているのです。
 しかし祈ることは決して容易なことではないとだれしもが経験していることではないでしょうか。
 さらに祈り続けることはもっと困難であることも知っているのではないでしょうか。
 ゲッセマネで主イエス様は苦闘の祈りをしておられました。もちろん翌日には十字架にかけられるという苦難の前夜でしたからです。
 石を投げて届くほどの所にペテロとヨハネヤコブが同伴していたのです。 
 それで主は彼らに『誘惑に陥らないように祈っていなさい。』と言われたのですが、しばらくすると彼らは眠り込んでいたのです。
 そこで主は、『誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱いのです。』と言われたのです(マタイ26章、ルカ22章)。
 モーセの祈りの手が下がるとイスラエルが劣勢に、アロンとフルがモーセの手を支えるとイスラエルが優勢となった。 
 ここでの教訓とは忍耐して祈り続ける大切さです。それは兄姉たちが助け合い、励まし合ってできることなのです。
 私たちはあくまでも助けてくださいという依頼者であって、解決者は神様であることを覚えましょう。16節『主は代々にわたってアマレクと戦われる。』
 私たちの信仰の戦いにおいて注意しないといけないことは孤独になることです。私たちには兄姉がとともにいるのです。そして主がともにおられるのです。
 そして今日の世界情勢(異常気象、災害、争い)を見ると、世界中のクリスチャンがともに祈る時が来ているのではないでしょうか。
 世界には個人の難局、人々の難局、日本の難局、世界の難局で混乱しています。
 そこからの救助は主に呼ばわる(詩篇55篇16節、詩篇120篇1節)ことではないでしょうか!