『互いに重荷を分かち合う』  出エジプト記18章1—27節  2015年 8/16(日)

  『互いに重荷を分かち合う』 
      出エジプト記18章1—27節       
              15.8/16
 車を運転していた時のことです。町役場に行って用事を済ませて、いつものように交差点を右に回り次の目的地に行こうとしたのですが、ちょっと待てよと思って、次の信号を曲がらないで、真っすぐに行けば、混むことなくスムーズに目的地に行けるということに気づいたのです。
 他愛ない話しですが、他にもっといい方法があることに気づかないで、固定観念にとらわれていたという経験は皆さんにもあるのではないかと思います。
 けさの聖書箇所の出来事の中にも、多少なりとも固定観念にとらわれていたという状況があったのではないでしょうか。
 それは、イスラエルの民は神様のみこころを求めるのは指導者モーセでなければならないという固定概念があったように思われるのです。
 もちろんモーセに尋ね求めることは良いことです。しかし、モーセの義父イテロが、朝から夕方までモーセが神のみこころを求め(契約の法を日常生活の出来事に適用して、個人的な問題や複数人の問題や事件の解決のために)に来る人々に一日中対応していたのを見て、このようなことをしていると疲れ果ててしまうとモーセに忠告したのです。
 モーセイスラエルの民たちにとって、自分たちのしていることが良くないということに気づきにくいのは、固定観念の渦中にあるからと思われるのです。
 たとえば、教会おいても何も感じないでしていることが、他の教会から来られた方にとっては違和感があるということもあるのです。
 やり方を変えればもっといいものになるなら、いつでも変えられるという柔軟な姿勢を持つことは大切であります。
 固定観念からの脱却するためのポイントは批判をかわす(あるいは避ける)のではなく、提案を受け入れることにあるのではないかと思われるのです。
 では、イテロの提案を見てみましょう。まず14節ではモーセを批判しているように思われますが、実はそうではないのです。
 モーセ固定観念という囚われから抜けるためには、はっきりと現状を伝えなければなりません。そうでないと固定観念の中にいることに気づきにくいのです。
 次に15、16節はモーセの言い分です。もちろん正そうとしている人の言い分を聞く耳を持つ必要があります。
 何でも一方的に責めたり、詰問したり、忠告するのは相手を追いつめるだけでなく、反感を抱かれるだけです。
 しかし、イテロは17節、18節でモーセや民たちのやり方の問題点を指摘したのです。それはモーセには十分に伝わるものでした。
 というのは、イテロがモーセのことをすごく心配しているという気持ちをモーセはキャッチできたはずです。
『あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。』 (コロサイ人への手紙4章6節)
 イテロの忠告には、塩味があり、親切心があったのではないでしょうか。そして、そのあとに実に適切で賢明な助言しています(19節)。
 批判するだけでは、建設的な意見や良いアドバイスは生まれないのです。
 単に批判するだけでなく、その人のために、その人が改善されるために、その人の益のために助言してあげるというのは、非常に大切なことであります。しかしそれは、決して容易なことではないのと思います。
 私たちはどうでしょうか。その人のために言ってあげる方がいいと分っていても、なかなか言いにくいということはないでしょうか。
 もしそのことを言うと相手が傷つくかも知れないという心配や、そして自分が悪く思われるかもしれないという恐れがあるのではないでしょうか。
 どちらかと言うと、私自身もなかなか言えないタイプです。ただし相手が、この事についてどう思いますか自分から聞いて来られた時は、その人のためにできる限り思っていることをお話しするようにしています。
 そうすることによって、今のところ双方いい結果が出ることが多いのです。
 さて、イテロの助言の方法とその内容も非常にいいものでした。
 まずモーセが仕えている神様に敬意を表しています。それは最初にモーセが、自分たちが信じている神様がどれだけ素晴らしいお方かをイテロに紹介(あかし)していたからです(1節、8節)。
 その結果、イテロはモーセたちが信じている神様をあがめているのです(10節、11節)。
 しかし、モーセはその素晴らしい神様を信じているにもかかわらず、民たちが神のみこころを求めて来た時に、モーセ自ら民をさばいていたのです。 
 しかしイテロは、そうではなく『あなたは民に代わって神の前にいて、事件を神のところに持って行きなさい。』と提案したのです。
 16節と19節とは大きな違いがある事に気づかれたはずです。
 難問をモーセ一人が背負って、そして神のことば(教えと戒め)からアドバイスをしていたのですが、イテロはそれを神様のところに持って行くようにと助言しているのです。
 4つの福音書すべてに記されている出来事である2匹の魚と5つのパンの奇跡を思い出します。
 少年が持っていたわずかなパンと魚を見て、1万人の群衆がいたと思われるなかで弟子たちは、それが何の足しになるでしょうかとイエス様をたしなめたのです。
 しかしイエス様はそれをここに持って来なさいと言われたのです。1万人とわずかな魚とパンは少年たちや弟子たちにとっては、何の足しにもならないものであって、あまりにも現実とかけ離れたものでしたが、イエス様のところに持って行った時に、それは群衆たちのお腹を十二分に満たすことができたのです。
 次から次ヘと心配事が起こる。どうすれば一番良いのかと迷ってしまう。このような時はどうするのがベストなのかといった難題や問題が起こった時に、イテロの提案は私たちにも参考にすべきかと思います。
 みことばを十分に理解していても、実行するのは難しいものです。
『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』(詩篇55篇22節)
『あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』(ペテロ第一5章7節)
 みことばの約束をしっかりと握る事が肝心なのです。
 私自身も教会の将来を色々と心配することがあります。でもよく考えてみると、この教会は誰のものでしょうか。教会は主のからだです。
 教会は主が建てられるのです。ですから主におゆだねする事も大切である事を教えられたのです。
 もちろん、私たちがするべきこともありますが、もっともっと神様の御手におゆだねして行くという信仰が求められているのではないでしょうか。
 さらにイテロは具体的に提案しているのです。それは21—23節です。提案は具体的なものほどいいのです。
 しかもその具体的な提案は、緻密で、知恵があり、熟慮されているのです。
 よく練られた提案は成功するのです。よく考えられた提案は有効に用いられるのです。
 イテロの発想は、モーセの重荷をできる限り軽くするためにどうするべきかから生まれているのです。
 それはモーセが背負っている重荷を民と分かち合うことでした。その結果、イスラエルにもたらしたものが23節に書かれているように、イスラエルの民の間に平和が生まれ、平安が保たれるということでした。
 モーセはイテロの提案を受け入れて即実行に移したのです。『その後、イテロは自分の国に帰って行った。』
 このみことばはまさに神様が、モーセの現状を見てイテロを送られたのではないかと思わせるものです。
 私たちの足りなさを補ってくださるお方こそ神様です。場合によっては、足りなさのために必要な人やものを送ってくださるお方でありことをこの聖書箇所からの教訓としたいものです。
『恐れるな。私はあなたとともにいる。』
 (イザヤ41章10節)
 主は私たちの良き助言者です。祈りを通して主の導きを聞きましょう!