『わたしのほかに神々があってはならない』 −第1戒— 2015年8月23日(日)

『わたしのほかに神々があってはならない』 −第1戒— 2015年8月23日(日)

 長男、次男たちが小学生の頃、ファミコンが非常にブームでした。ある時長男の担当教師が授業中に、ファミコンを持っている人と持っていない人の手を挙げさせたのです。何とファミコンを持っていなかったのはそのクラスで2人でした。その内の1人が長男でした。
 当時私の方針はファミコンを買わない、持たせないというものでした。それでも長男は、友達の家に行ってファミコンをしに行っておりました。しかもファミコンを持っていないと、友達にもなりにくいということもあったようです(現に友達はファミコンを持っていない友達でした)。
 その後も買わずじまいで年月が過ぎて行った頃に、教会の信徒の息子さんから、ファミコン要りませんかと声がかかりました。子供はファミコンがないために友達ができないというのも不憫に思っていたこともあって、とうとうファミコンを譲っていただきました。
 そこで、私はファミコン十戒を考えました。一日何時間以上はしない。試験の何日前はしない(私は子供には勉強しなさいとはほとんど言いませんでしたが)。他にも約束事を決めたのです。子どもたちはしっかりと守ってくれました。その頃は、確かにルールは必要なものであると言うことを実感したのです。
 さて、何らかの法律やルールというものがあると窮屈に思いがち、でもないと何かとトラブルが起こるものです。
 あるいは交通ルールがないと、事故や交通マヒで交通網は機能しないのです。
「親しき仲にも礼儀あり」とあるように、人間関係においてもそれなりの決まり事や、法則がないと良い関係を保つことは非常に難しくなるものです。
 ところで目には見えませんが、神様と人間との間においても、当然ながらルールは必要であり大切であります。
 けさの聖書箇所にあるように、神様は私たちと良い関係を保つために、大切な戒めを与えられたのです。人間関係における心得はお国柄によって違いがありますが、神様と人間関係は万人共通であります。
 というのもこの十戒は、イスラエルの民に語られたメッセージではありますが、やがてはすべての人々への神様からの非常に大切な戒めでもあるのです。
 では、けさは1—3節から、十戒のうちの第1の戒めについて学びましょう。
 第1の戒めとは、「あなたは、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」であります。
 私たちは、個々色々な事情があるとしても、一人の父と一人の母から生まれて来るというのは当然のことです。そして、法的に認められている父や母を敬うということは子供として当然果たすべき義務であり、また人道的なことであるというのは言うまでもないことです。
 昨今、父親が子供を殺めたり、あるいは子供が両親を殺めたり、夫婦間のトラブルといった事件は少なくありません。さらに年上の人を敬う心や、目上の人に対する言葉使いができていないという場面を時々見かけるものです。 
 まず人間関係において大切にすべきことは、親子関係ではないでしょうか。それは聖書の中で教えていることです(参照:エペソ6章1、4節 コロサイ3章21節)
 実は、このような関係がなぜ大切であるかという根拠を具体的に教えているのがこの第1の戒めであります。
 私が小学生の頃、服のことで母や学校の先生によく注意されました。それは時々第1ボタンと第2ボタンを互い違いにつけていたために、服を歪んで着ていたのです。いわゆるボタンのかけ違いです。
 そして母は、上からボタンをはめないで、下から順番にはめなさいとよく言われたものです。それでもぐいっちにぼたんをかけることもありました。
 つまり最初の戒めは服で言えば第1ボタンのようなものではないかと思うのです。
 この第1の戒めをしっかりと心に受け止め、実行しないと、父と母を敬えといった第5の戒めをしっかりと守ることは難しいのです。もちろん他の戒めもであります。
 では第1の戒めの大切な教えとはいかなるものでしょうか。
 まず第1に、神様にとってかけがいのないあなたという人格に語りかけておられるのです。では、あなたに語りかけておられる神様から何を見出すことができるのでしょうか。
 それは「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」と語られた神様を知らずして自分のいのちの源を知ることができないのです。
 さらには私の存在意義と存在目的を見出すことができないのです。
 ですから、生かされている恵みを自然の産物に感謝するだけでなく、それらを造られた創造者の存在を知り、そのお方に感謝することを忘れるようなことがあってはいけないのです。
 1つの例話です。すごく寒い冬の夜、友人が家に来た。その友人は家の中にあったストーブに手を合わせてお礼をしたのです。ところが、彼の行動を見ていた家の者が、ストーブを用意した私にお礼を言うべきではないかと彼をたしなめたという話しであります。
 たとえば、私たちの国では、食べ物ができるために不可欠な光を放つ太陽に手を合わせて感謝する人も多いのです。
 しかし太陽を造られた創造者に感謝することを忘れてはいけないのです。そして人間や生き物が生きるためにすべての必要を無償で与えてくださる神様に感謝すべきではないでしょうか。
 ということで、ほかの神々があってはならない大きな理由とは何でしょうか。 
 先ほどのストーブに感謝している友人に、感謝すべきは私の方ではとたしなめたように、間違った認識によって得た結論からは、間違った生き方(的外れな生き方)が生まれ、しかも真理からますます離れていき、最終的には真の神様を見出すことができなくなるのです。
 それこそがほかの神々があってはならない理由の1つではないかと私は考えるのです。
 主イエス様は『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければだれひとり父のみもとに来ることはありません。』(ヨハネ14章6節)と言われたのです。
 第2、もう1つのわたしのほかに神々があってはならない理由とは何でしょうか。 
 それは神こそが第1にあがめられるべきお方であり、神こそがすべてにまさる存在者と認め、他の何よりも大切にすべきだからです。
 ではほかの神々があれば、どのようなことになるのでしょうか。それは、その神々をあなたが第1にあがめる対象となり、そしてその神々がすべてに優るゆえ、あなたの人生はその神々に縛られてしまうのです。
 さらに、人が神を造りそれを拝むだけが偶像礼拝ではないのです。パウロは心の中にある偶像に警戒するようにと勧めているのです。
『ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。』(コロサイ人への手紙3章5節) 
 最後に「ほんとうの神と作られた神」というメッセージをした宣教師の話しを紹介します。
 あるアメリカの宣教師が、インドの伝道から帰って来ました。そして、教会で説教をした時のことです。彼はインドから持ち帰った仏像を高く掲げて言いました。『インド人はこのような仏像を拝んでいます。』と。そしてもう一方の手で、一ドル硬貨を差し示しながら、『今日、アメリカ人の多くはこの偶像を拝んでいる。』とつけ加えたのです。
 
 まことの神様を礼拝する者は、いのちの根源と私という存在価値と存在目的を見出し、さらに世の偽りから自らの身が守られ、何よりも神様から永遠に離される第1の理由である私たちの罪が赦されて、恐ろしい魂の永遠の滅びから免れることができるのです。
「あなたには、わたしのほかに神々があってはならない」
 まことの神様から豊かな祝福を受ける人生の秘訣とは、第1の戒めの真の意義を見出し、それを自分のものとして日々の生活の中で生かすことなのです。