『偶像に警戒しなさい』 −第2戒−  出エジプト記20章4—6節15.8/30(日)   

  『偶像に警戒しなさい』 −第2戒− 
出エジプト記20章4—6節15.8/30(日)     
 中国は共産主義国家であるにもかかわらず、伝道の拡大によってクリスチャンになる人たちが増えているのです。恐らく8000万人から9000万人(以上?)のクリスチャンはいると言われています。
 中国はかつて文化大革命(1966年から1976年)によって、多くの宗教施設(仏教寺院・キリスト教会など)が壊され、多くの偶像も取り壊されたのです。そして社会主義想が国民の心に深く刻み込まれたのです。
 しかし今日の中国の多くの人々は、社会(共産)主義思想では心を満たされず、ますます心が渇いている状況であります。 
 ところが、あらゆる偶像が破壊されたために、多くの偶像崇拝から遠ざかっていたという皮肉な結果を生み、今日中国人にとって、唯一なるお方で、目には見えない神様について書かれている聖書は、抵抗がないどころか、むしろ彼らの心をしっかりと捉えているという状況であります。これからもますますクリスチャンが増えて行くのではないかと思われます。
 それとは反対に我が国は依然として、クリスチャン人口が1%以下の状況が続いているというのが現状であります。信仰の自由に守られて、多くの宗教が混在し、実に22,5万の宗教団体(内に神社が8万社、寺仏閣が7、7万基の団体、キリスト教会は3、3万基の団体があります。)があるのです。
 そのような国においてけさ学ぶところの第2の戒めである偶像を造ってはならない。それらに仕えてはならないという聖書の教えとは裏腹な日本の現状に気持ちが重たくなるのですが、そのような国の中にあって、神様は日本のキリスト教会に宣教の使命を託してくださっているのです。
 それゆえにクリスチャンは、偶像の問題を正しく理解する必要があるはずです。
 そして偶像礼拝に対して、むやみにさばくのではなく、むしろクリスチャンは、まことの神様を知らない人々に対して、いかに分かりやすく聖書や神様についてお伝えすればいいのかをもっともっと考える必要があるのではないかと思わされるとことであります。
 ということで、けさは第2戒の中にある神様の真意や意図について、つまり戒めの背景にある精神とは何であるかを学ぶことによって、伝道の助けとなり、さらに救霊の思いが熱くされるなら幸いではないかと思うのです。
 さて、この第2の戒めにおいて、まず第1に偶像と彫像、あるいは肖像を同様に扱うことに注意すべきであります。
清教徒の父祖たちの信仰は素晴らしいものがあった。しかし、彼らは芸術作品も偶像崇拝と見るようになり、家の中に絵を飾ることも拒否したということであります。しかし、それは神様のみこころではない。幕屋にはケルビムの像があった。ウエストミンスター寺院に行くと、以前あった彫像が見当たらない。取り除けられた原因は、それらの像の前に礼拝者がひざまずいたからである。」キャンベル・モルガン著『十戒』より
 日本にもたくさんの文化遺産があります。しかも宗教的な背景があるものがほとんどであります。
 かつて英会話教師が教会で奉仕をしていただいていた頃に、時々野外でのレクレーションがありましたが、行き先はたいてい神社仏閣だったのです。まさしく奈良はそういう地域なのです。もちろん神社仏閣がいけないというのではないのです。
 その中にある価値ある有名な彫像や肖像、あるいは多くの仏像もまた日本の貴重な文化遺産世界遺産のものも)であります。
 つい心の中で、こんな偶像に手を合わせても何の意味もないと思うこともあります。しかしかつては、それらに手を合わせていたのは他でもない私自身だったのです。
 仏像に手を合わせて祈ることがなぜいけないのかと考えたこともなく、それどころか、人から偶像に祈っても意味がないと言われると反発したとことでしょう。
 まさにそれはまことの神様を知っている人の言い分であって、知らない人にとっては失礼な発言かも知れないのです。
 聖書の中に同じようなシチュエーション(状況・状態・立場)があります。
 使徒パウロがアレオパゴスの真ん中に立って、人々に語ったのです。『アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心の熱い方々と見ております   
〜〜パウロが死者の復活について話すとあざ笑う人や、またいつか聞くことにしようと言ってパウロから去って行ったが、ある人はパウロに従って信仰に入ったのです。』(引用:使徒17章22節から31節)
 ここで注目すべきパウロのことばとは、「宗教心のあつい方々」と「私たちは神の子孫ですから」であります。
 まず相手に尊敬の意を抱きつつ、私たちもあなたがたと同じ神の子孫を持っている同国民であることを伝えて、心の距離を近くしょうとしているのではないかと思われます。これはパウロの伝道戦略のように思われるのです。
 この第2の戒めについては、偶像礼拝をしている人を問題視(蔑視:見下げる・バカにする)するのではなく、偶像礼拝の問題点についての理解を深めなければいけないのです。
 ではその問題点とは何でしょうか。それは、偶像礼拝によって人は誤った神認識を持ち、そしてその誤った神認識は、正しく生きることを妨げてしまうのです。
 まことの神様を知らないということで、偶像を造り、あるいは偶像を礼拝することによって、結果的にはまことの神様の存在と本質を否定することになるのです。しかし、それは神様に背く行為なのです。
 人は偶像礼拝によって、神様が個々に与えられている人格の価値や素晴らしさを見失い、いのちのない偶像に心を奪われ、縛られ、支配されてしまって、いのちのない神様に仕えることによって、奴隷的な立場(身分)に陥ってしまうのです。
 神の似姿によって創造された人間が、人間が造った偶像を礼拝するというのは、神様から与えられた人間の存在価値を失ってしまうという危うさがあるのです。
 つまり第2戒は、偶像を造る人や偶像を礼拝する人をさばくことが強調されているのではなく、あくまでも私たち人間が、神様の祝福を失わないように、また神様の恵みから離れることのないようにという神様の人間に対する熱い思いが込められている愛の戒めであるということを忘れてはいけないのです。
 ですから私たちも、神様の愛の精神を忘れないで第2の戒めを、自分はもとより隣人にも正しく適用しなければいけないのです。
 ではこの第2戒めをどのように適用すればいいのでしょうか。
 ❶クリスチャンは、まことの生ける神様を信じている子どもとして歩むように召されているのです。
『愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。』(エペソ1章1節)
『あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって光となりました.光の子どもらしく歩みなさい。光の結ぶ実は、あらゆる全善意と正義と真実なのです。 
そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けない。』(1章8—10節)
 ❷まことの神様を知らない人々の中にあって、良き証し人として召されているのです。
『あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。』(マタイ5章16節)
❸私たちの神様への礼拝や神様との交わりにおいて、この世のものが心を支配するという誘惑が常にあることを心に留めましょう。偶像とは決して拝む対象物だけではないのです。
『このむさぼり(飽きることなく欲しがること、際限なくある行為を続ける等)が、そのまま偶像礼拝なのです。』(コロサイ3章5節)
 ❹偶像から離れて、まことの神様を愛し、神様の命令を守りましょう。それは、その人のみならず、子々孫々に至るまで、神様から豊かな祝福と恵みを受ける唯一の道なのです。
『わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。』(出エジプト記20章6節)
 ❺神様によって造られた私たち人間が、造り主に出会い、唯一の神様を礼拝して、やがて天の御国にて永遠に神様と過ごすことができるための道備えを十字架の死を持って実現してくださったのが、子なる神様であるイエス・キリストなのです。
 
 『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。』
        (ヘブル12章3節)