主の御名とは』 −第3戒− 出エジプト記20章7節 15年9月6日

『主の御名とは』 −第3戒−
出エジプト記20章7節 15年9月6日
 そもそも7節の主の御名とはどういう意味でしょうか。すでにこのことに関しては出エジプト記3章14節において学びましたがもう一度おさらいします。
神様は、「わたしは在って在る者である(I am who I am)と答えられたのです。英語のamはヘブル語ではハーヤーです。それは存在する(ある)。存在していた。存在し続けるという意味であります。
 ところで、イスラエル人はこの第3戒を守らなければならないということで、聖書朗読の時にヤーウエという箇所をみだりに唱えてはならないということを厳守して、ヤーウエを「私の主:アドーナーイ」と呼び変えたのです。
 やがて長い年月の流れとともにヤーウエという発音を忘れたことによって、ヤーウエと読むべきところを、アドーナーイの発音で読んだ結果、エホワーとなりました。
 ですから、本来の神様の名前であるヤーウエと言うべきところを間違ってエホワーと発音していたのです(エホバの証人の人たちはそのことを知らないでエホバの名を使用していると思われます)。 
 どちらにしましても、昔のイスラエル人はみだりに唱えてはいけないという戒めを正しく理解していなかったのではないかと思われるのです。
 とはいえ、この第3の戒めの本来の意味合い(神様の意図とされていること)が長い歴史の流れの中にあっても決して変わることはないのです。
 もちろん、現在の私たち信者においても大切な戒めであることには変わりないのです。
 ということで、けさは第3の戒めの今日的意義についてご一緒に学びましょう。
 まず御名を唱えるというのはどのような時でしょうか。それは祈る時、賛美する時、告白する時、宣言する時(日常の会話において)などです。
 まず第1に祈る時は、神の御名によって祈ります。
 私が教会に来始めた頃に、聖書の学び中に、牧師が岸本さん祈りましょうと言われた時に、私は祈りのことばが全く出ないで、出たのは汗だけでした。それは何とも情けない私の最初の祈りの体験の証しです。
 それともう一つには御名によって祈るという本来の意味が全く分かっていなかったと思います。当時は、牧師は実に素晴らしい祈りをされるなと思っていました。
 そのうちに私も段々と祈れるようになって来たのですが、ある時に牧師と祈っている時に、妙に引っかかってしょうがない言葉があったのです。
 それは、何回も繰り返さるメッシュ、メッシュという言葉でした。始めは何の意味かなと思っていたのですが、よく聞いてみると、それはアーメン主(縮めてメッシュと聞こえたのです)という言葉だったのです。 
 その当時は、主の御名をみだりに唱えることではないのかということも考えもしませんでした。
 それどころか、その内に私も牧師のまねをしてしまい、いつの間にか口癖になってしまいました。
 繰り返される「アーメン主」は何となく熱心に祈っているような感覚が持っていたことは確かです。
 確かにそのように繰り返される言葉が、第3戒で指摘している「みだりに(軽々しく:シャーアー 無駄にする、軽々しく、偽って行なう、呪って行なう、ラ・シャーアーで悪を行なう、偽り、空しいという意味)唱えてはいけない」ということではないことは言うまでもないことです。しかし祈りにおいて、気をつけなければならないことがあるのです。
 たとえば『また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。』(マタイ6章7節)と主イエス様は戒められたのです。
 もし私たちの信じている神様がどのようなお方であるかを知っているなら、ただ同じことばをくり返しているだけなら、御名の素晴らしさである主権、力、栄光、栄誉を疑うことであり、その名を暗くすることであり、また神様を偽り者にしてしまう危険性が潜んでいるのです。
 なぜなら、『だから、彼らの真似をしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたの必要なものを知っておられるからです。』
(マタイ6章8節)と主は言われているからです。
 つまり、同じことばをくり返して祈ることのなかには、神様の偉大さや真実さよりも、自己中心的な、あるいは自己都合的な思いが優先されていて、神様への信頼や、畏敬の念がないのと同じなのです。
 まさに主の御名をみだりに唱えていることに他ならないのです。
 第2に、賛美する時の注意点とは何でしょか。
 神への畏敬の念や崇敬の思いが伴わない賛美は神様への賛美とは言い難いものなのです。これも同様に主の御名をみだりに唱えていることになりかねません。 
 ですから口先だけの賛美、つまり気持ちの伴わない賛美や、歌い慣れて機械的にくり返している賛美にはお互いに注意しましょう。
 参照:コロサイ3章16節
 第3に、私たちは告白する時に注意すべきことがあります。それは神の御名が偽善的に用いられるときです。
 例えば「なぜ、わたしを『主よ。主よ。』と叫びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。」(ルカ6章46節)との主イエス様のおことばです。
 イエス様の時代にそのようなことがあったと思われます。主よ。主よと天を見上げながら神様に叫びつつも、その告白と願いとは裏腹な行いがあったということです。
 敬虔に生きている人が敬虔に祈ることができるのです。また偽善からは真の告白は生まれないのです。
 でもこの事について誤解のないようにしましょう。それは「主よ。主よ」と言って、あたかも敬虔であり真実であると見せかけていることに問題があるのです。
 私たちは、聖書の教える行いが伴わないことがしばしばあるのではないでしょうか。
 しかし神様は憐れみ深いお方です。正直であること、あるいは真実であることは主が喜ばれることです。
 たとえ信仰において自分の足りなさがあっても、ありのままで心から祈るなら多くの偽善から守られて、主がその祈りを聞いてくださるのです。そしてありのまま告白するなら主は赦されるのです。
(参照:ヨハネ第一1章9節)
 第4は、日常の会話において主の御名をみだりに唱える危険性について考えましょう。それはふさわしい目的もなく使われるときです。
 映画を見ていますとよく欧米人がオーマイゴッドと言うシーンがあります。皆さんはそのことばをどのように思っておられるでしょうか。
 このことばがくり返し使われることに違和感があるのです。少なくともクリスチャンは使わないフレーズだと思います。
本当に神様を信じているなら使えない言葉ではないでしょうか。
 さらには、キャンベル・モルガン著『十戒
という本の中で、こういう話があります。
 『英国人がよく使う表現に「神様に呪われろ(畜生め)。」と言うことばがあります。他の人に悩まされると、すぐにこう言ってののしり返す。これは、神の御名をみだりに唱えているのであります。
 なぜなら、それを言う時に、そのことば通りを意味しているのではないからである。そのことばが意味する恐ろしいことが、ことごとく相手の身に起これば良いと思ってそんなことを言う者は誰もいない。
 神がするとは絶対に考えていないことを祈願することは、神の御名を不真面目に口にすることである。神は決して人を呪われない。神が人を呪うという考えは、恐るべき異端の教義である。神のわざは救いである。』
 これらも気をつけないといけないものであります。
 今の例証から私自身が気づかされたことですが、時々教会の駐車場に空き缶やあるいは犬の糞を見かけます。
 以前のことですが、あまりにくり返されるそのような行為に業を煮やした私は、「誰やねん!神様。こんなことをする人を何とかしてください。」と心の中で、神様がそのような人を痛い目に合わせられるようにという一抹の思いを持ってしまうのです。 
 神様の思いとは違うことを分かりつつ、神様の御名を使ってことばに出すこともまた主の御名をみだりに唱えていることに気づかされたのです。
 その後に私の友人である牧師は、「電信柱に貼ってある淫らなポスターを見つけ次第取り外しています。」ということを聞いた時に、私の心は実に狭いことに気づかされたのです。
 
 最後にアーサー・ピンクの『十戒』よりまとめてみました。
『この戒めは、次のすべてのことを禁じている。すなわち、神の名誉を汚すすべての思い、不必要に、軽々しく、不敬虔で、冒瀆的な仕方で神の御名を用いること、神のみことばを不穏に用いること、神の摂理に反対してつぶやくこと、神ご自身を知らせるために与えてくださった物を乱用する一切のことが禁じられている。』