『神と対面したモーセ』    —モーセの祈りに学ぶ— 出エジプト記33章12—23節 2016年1/24  

   『神と対面したモーセ』 
  —モーセの祈りに学ぶ— 2016年1/24
    出エジプト記33章12—23節
 先週は、長男の嫁が大阪での出産のために、王寺の家で一週間孫の子守でした。朝9時と夕方4時に保育園の送り迎え、その合間を縫って仕事や用事をすますという慌ただしい日々を送りました。
 孫に合わせた生活のために、夜の9時には寝かせつけます。孫が寝た後に、起きてゆっくりしょうと思ったものの、孫と一緒に寝てしまって朝になるという一週間を過ごしました。妻も大変ではなかったかなと思っています。
 東京にいる長男からは、「この機会にイエス様の事しっかり教えといてくれる」と一言。 
 初日の夕食の時に私がお祈りをしました。 
 そして翌日の夕食の時に孫がいきなりアーメンはいや!と一言。妻は困惑していたようですが、私は「どうして」と孫に聞いてみると、「じいの祈り長い!」と一蹴されました。
 という事で教会に戻った時に妻は「初めての子どもの祈り」という絵本を持ち帰り、寝る前に読んであげ、食事の時にも読んであげますと、その本を気に入ったようです。孫にしてみれば、私の食事前の祈りは的の得た祈りではなかったようです。
 確かに、にわかに祈りを頼まれた時など、的の得た祈りをするのは難しいなと思う時があります。人を意識し過ぎたり、良い祈りをしようと意識しすぎたりします。
 果たして神様に祈っているのか、あるいは人に祈っているのか、よく分からないということはないでしょうか。 
 また一人で祈っている時でも、本当に神様に届く祈りができているのかと思うことはないでしょうか。
 いつになっても祈りに戸惑いを覚えているような者であるゆえに、聖書に登場する先人の祈りから、いかに祈るのかを学ぶことは大切なことではないかと思います。
 さてけさは、モーセの祈りから3つの大切なことを学びたいと思います。
 まず第1は12節です。『ご覧ください』という祈りというよりもモーセの叫びであります。
 主よこの状況を知って(見て)下さいと訴えているのです。
 神様に向かって訴えるような祈りはまずくないかなと思われるかも知れません。でも聖書の中には、神様への訴えのような祈りが多くあるのです。
 例えば、第一列王記17章17—24節『私の神よ。主よ。私を世話してくれたこのやもめさえも、災いを下して、彼女の息子を死なせるのですか』とエリヤは神様に訴えているのです。
 そして、モーセは「主よご覧ください。」と訴えています。両者の祈りの共通点とは『主よ!』という語りかけであり、目には見えないお方ですが、見ているかのように、神様と対面して祈っているのです。
 これら祈りは、つぶやきや不平の祈りのようですが、実はそうではなく、それは自分に置かれた厳しい状況を、ありのまま包み隠さずに主の前にさらけ出し、そしてギブアップ(降伏)の表明をしているのです。
 祈りつつも、こんな状況が好転するのかなと疑うことはないでしょうか。あるいは、神様を信じているのになぜこのようなことになるのですかと訴えではなく、つぶやきや不平、不満になっていることはないでしょうか。
 モーセやエリヤの神への訴えの背後には、神様なら何とかしてくださるという揺るぎない信頼と信仰があったからではないでしょうか。
 私自身も、何度も神様につぶやく祈りをして来ました。なぜですか?どうしてこのようなことになるのですか?私が何かしたからですか?という具合に祈るのですが、それは祈りというよりもつぶやきなのです。
 いかなる状況であっても、すべてをご存知で、すべてを支配され、どんなことでもできる全能の神様であります。そのお方を全く信頼して「主よ。ご覧ください」と祈ってみましょう。主は必ず祈りに答えてくださるのです。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに感謝を持ってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ピリピ4章6、7節
 第2はみこころです。あなたの道を教えてくださいという主のみこころを求める祈りです(13—16節)。
 モーセの神のみこころについての祈りとはどのようなものでしょうか。16節を見ましょう。ここでは、主は偶像崇拝の罪を犯した民とは荒野をともに歩まない(御使いは遣わすと約束されたのですが、あくまでもモーセは主がともに歩まれることを望みました)と言われたことに対して、モーセは神様との取引のような祈りをしているのです。
 ここでの神様のみこころとは、わが民を特別な民とし、諸国の民とは区別されているのですから、神様が民とともに荒野を歩んでいただきたいのですという切なる願いであり祈りであります。
 つまりここでのモーセの祈りとは、モーセ自身が神のみこころを尋ねながら祈っているのではなく、神のみこころを確認しながら、私が祈っていることは、神様のみこころにかなっていることです。ですから私の祈りに耳を傾けてくださいという、ある面においては大胆な祈りと言えるのです。
 ではモーセがこのような祈りをすることができた理由とは何でしょうか。それは、モーセは神様のみこころをよく知っており、そして神様のみこころを大切にしていたからではないでしょうか。
 私たちは祈りにおいて一番心に留めるべきことは、その祈り願い事が神様のみこころにかなっているかどうかということです。なぜなら、聞かれる祈りとはどういうものであるかをみことばで教えているからです。
 「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願うことを神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」
 第一ヨハネ5章14、15節
 ところがしばしば神様のみこころが分からないために、祈っても答えられないことは、神様のみこころではないと判断して、あきらめてしまいやすいのです。
 例えば、家族の者(ご主人や妻、そして子どもたち)が救われるようにと祈ることや、もっと広く、友人や知人やそして国民が救われるようにと祈ることに疲れてしまって、祈ることをやめてしまうなら、それこそ神様のみこころにそぐわないことになるのです。
 言うまでもなく、神はすべての人を愛しておられ、ひとりでも滅びることを望んでおられないからです。ですから、私たちの救霊のためのとりなしの祈りは絶対にあきらめてはいけないのです。
 ただし私的な祈りについては、神様のみこころかどうかをよく見極めないといけないことがしばしばあります。
 さてこの所で教えられることは、モーセのように明らかに神様のみこころであることについては執拗に祈る、あきらめないで祈り続けるということです。
 そして神様のみこころを知るためには、みことばをよく読み、みことばをしっかりと学ぶことが大切であります。
 第3は、神の栄光を見たいと願ったのです(18節)。ここでモーセは、神様とはどのような丘であるのかを証言しているのです。
19節:神はすべて存在するものの主権者であり、支配者です。
20節:神を見ることはできない。
21節:神によって知らされる範囲内で、神を知ることが許されている。
22節:神のあわれみによって生かされている。
23節:神の御前に立てる者はひとりもいない。
 このようなお方に祈ることが許されていることはどれほど光栄なことでしょう。
 そして、神様は私たちの祈りに耳を傾けてくださり、祈りに答えてくださることに感謝しましょう!
 私たちは神様の前に出られるだけでなく。神様の方から私たちの所に来てくださって、私たちの祈りを聞いてくださり、そして祈りに答えてくださるのです。これらのことはイエス・キリストが私たちと父との仲介者(十字架によるとりなし)となってくださったゆえの天来(無償)の恵みであります。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなりません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」へブル4章15、16節 「神に近づきなさい。そうすれば神は、あなたがたに近づいてくださいます。」
 ヤコブ4章8節