「神と語り合うモーセ』モーセから学ぶー  出エジプト記33章1—11節 2016年1/10(日)

  『神様と語り合うモーセ
 —モーセから学ぶー 2016年1/10(日) 
        出エジプト記33章1—11節                    
 退職後読もうと思いまして、一年ほどかけて三国志の文庫本13巻を買いました。そのことを聞いた方が、「今読めないものは、退職後も読めないな」と言われました。
 そうならないようにと思っているのですが、読書の良さの一つには、歴史上の偉大な人物から直々教えてもらえないものを、その偉人について書かれた本を読むことによって大切な教訓を学べるだけでなく、自らの人生に生かすことができることにあります。 とすればこの聖書はどれだけ私たちに益をもたらすことでしょうか。
 けさもモーセという偉大な人物から信仰者にとって大切なことを学びましょう。
 さて旧約聖書には、「主は語られた。」あるいは、「主が仰せられた。」という箇所が数多くあるのですが、私が祈っているときに時々思うことは、祈っても神様からの答えが分からない時です。もちろん神様の祈りの答えは聖書を通してということは分かっているのですが、どれが神の導きかがよく分からないことがあります。
 そのような時に、神様が直接語ってくださったらなあと思う時があります。
 これまで私は、神様の肉声を聞いたことはありません。やはり今日の時代は聖書のみことばを聞いて、神様の導きを求めて行くことが何よりも大切ではないかと思います。
 さて旧約の中で、主が直接人々に語られることがしばしばありましたが、しかしそれはごく限られた人々だけでした。
 例えば族長であったアブラハム、祭司であったサムエル、王であったダビデ預言者であったエレミヤたちです。 
 これらの人物のように私たちにも直接神様から語っていただけるなら、どれだけ素晴らしいことかと思われるかも分かりません(神様の御心が即座に分かるからです)。
 しかし、神様から直接語られた人物のことをよく観察しますと、神の御声を直接聞くということは、実は飛び上がるほど嬉しいことではないことが多いのです。 
 例えば、モーセが神様から御声を聞いた時は80歳でした。神様が燃える柴からモーセモーセと呼びかけられたものの、神様が語られた内容は彼自身にとっては決して喜ばしいものではなかったのです。
 それは長い間エジプトの奴隷となっている民の解放のためにリーダーとなりなさいという命令だったのです。
 モーセはその任の重さのゆえに私は口べたですからと言い訳して辞退したのですが、結果的には、神様はアロンを助け手とされて民の指導者となりました。
 神様の御声を直接聞いた、アブラハム、サムエル、ダビデ、エレミヤ、あるいはイザヤも大なり小なりモーセと同じような経験をしているのです。
 もし私たちが、神様から直接声を聞いたとするなら、モーセのように逃げ腰になり、尻込みしたりするかも知れないのです。
 ということで神様が直接語れた人たちは、神様から特別な使命を受けた選ばれた人たちです。
 今日の時代に生きる私たちは神様が語れたみことばを頼りにして、聞き従って行くことが最善ではないでしょうか。
 しかし、神様に聞き従うというのは、決して強制的なものではなく、自由意思が尊重されているゆえに、いくつかの選択肢があるはずです。
 ところが、神様から与えられている自由意志を弄んでしまったのが荒野でさまよっていたイスラエルの民でありました。
 それは前回学んだように、金の子牛の像を造って、それを礼拝してしまったのです。 
その結果は神のさばきを受けるという恐ろしい刈り取りでした。
 幸いにもモーセのとりなしによって、そのさばきはいくらか軽減されたと思われるのですが、そのような出来事の後に33章1—3節の背景であります。
 神様がモーセに語られたこととは、約束したカナンの地には、わたしはともに行くことはないと言われたのです。代わりに御使いが民を導くようにすると言われたのです。
 その理由が3節です。これからの道中において、強情なイスラエルの民が不従順となって、神様から再び民をさばくことのないようにと慈しまれたのであります。
 ここで神様とはどのようなお方かを考えてみましょう。この所から分かることは、神様は決して民をさばくことを第1に考えられておられるのではなく、罪を犯した民を見逃せないゆえにさばかなければならないことを憂慮されているのです。
 ここに神様のジレンマがあるのです。
 神様はすべての人を愛されています。しかし人が犯した罪を見逃すことができないのです。罪をそのままにするなら、神様の義が問われ、反対に罪を犯した人を厳しくさばくなら、神の愛が問われるのです(姦淫の罪を犯した女)。
 神様は、うなじの恐い民とともに行くことは、やがて再び民をさばくことになることを非常に懸念されたはずです。
 聖書のことをあまり理解されていない多くの人は、聖書の神様は恐ろしいさばき主であると思っておられのです。しかし神様のジレンマの中に神様のまことの愛を見つけることができるのです。それが次のみことばであります。
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
 第一コリント5章21節
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました.ここに愛があるのです。」 第一ヨハネ4章10節
 さて、神様は民と一緒にはカナンの地には行かれないということを知った時に、イスラエルの民は非常に悲しみました(4節)。
 そのために偶像礼拝をしてしまった時の装飾品を身に着けている者は誰ひとりいなかったのです。
 偶像礼拝に信仰を惑わされた民が悔い改めたことによって、まことの神様から離れて荒野を旅することはどれだけ不安で、心細いものかを過去の経験から気付かされたのです。
 今日の私たちも先行きの見えないこの世において、何の指針もなく、あるいは頼るものもなく、何の道しるべもない状態で、生きていくというのは実に不安なことではないでしょうか。
 この時代においてだれひとり、安全にかつ無事に、間違いなく、そして憂いなく人生を送れるという保証はどこにもないのではないでしょうか。主は語られています。
 「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」
  詩篇32篇8節
 神様とともに歩める人生に感謝しましょう。自分ひとりで生きているかのように歩んでいるということはいないでしょうか。
 いつでも、どこでも主を意識して、主のみことばを頼りに、日々主とともに過ごしましょう。
 最後にモーセの会見の天幕について学びましょう(7—11節)。
 のちに学ぶ35章における幕屋建設の記事とここでの会見の天幕とは区別しなければなりません。
 会見の天幕とは主とお会いする定められた場所であります。
 1、5節では、「主はモーセに仰せられた。」12節では、「モーセは主に申し上げた。」と書かれています。
 モーセが主に伺った場所が会見の天幕の中であったと思われます。
 かつてモーセは民の悩みや問題を朝から晩まで聞いて、指導もしていたようです。
 その状態を見た妻のチッポラの父のアドバイスは、一日中民の悩みや問題で押しつぶされそうなモーセを助けたのです。
 ところが、モーセは荒野において再び民を導いて行くための厳しい局面に立たされていたのです。
 大きな問題の処理を引き受けたものの、民は偶像に心を寄せて堕落してしまったのです。もはやひとりでは担い切れない状況の中で、モーセは最も重要な場所を設けたのです。
 その場所は、モーセが何よりも優先したのです。そして、モーセが助けられた場所であり、励まされた場所だったのです。それが会見の天幕(tent of meeting)でした。
 当時はモーセだけが主と会見できたのです。しかし私たちはイエス・キリストの血によって大胆に神に近づくことが許されているのです。
「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
 ヘブル書5章16節
 私たちはモーセのように天幕での会見の時を持ちましょう。それは日々のデボーションという時であります。
 その場所で神様から知恵や励まし、慰め、助けをいただいて、そして日々の歩みをスタートする朝一番が最善であります。
 どうしても難しい場合は1日のうちどこかで、あなた自身が設けられている会見の天幕の中で神様との交わりの時を持ちましょう!