『聖書は人生の指針なり』~契約の更新~  出エジプト記34章1−4節    2016年2月7日

『聖書は人生の指針なり』~契約の更新~
       出エジプト記34章1−4節
           2016年2月7日
 豚に真珠、猫に小判と言えばごく身近なことわざであります。類語ではウサギに祭文、犬に論語です。
 ちなみにウサギに祭文とは、ウサギに有り難い祭文を聞かせてやっても、理解できないということから、「我の強い人間に、善意から忠告しても聞く耳を持たない。言うだけ無駄」という意味であります。
 40日間モーセシナイ山にとどまっていた時に、神の指によって2枚の石の板に刻まれた10の戒めは、モーセが帰って来るのを待ち切れずに金の子牛の像を造り、それに伏し拝んでいたイスラエルの民にとっては、まさにウサギに祭文、犬に論語のことわざ通りでありました。
 つまり、イスラエルの多くの民は神様の教えに聞く耳を持たなかったのです。
 そして堕落した民を見たモーセは激しく怒り、2枚の石の板を投げつけて、粉々に砕いてしまったのです。その直後に神様のさばきが下ったのです。
 さばきを逃れた民は心を改めたのですが、神様はもはや民とともに荒野をともにすることはないと言われたことに対して、モーセは神様に食い下がって、神様も一緒に荒野をともにしてくださいと民のために熱心にとりなしをしたのです。
 以上がこれまでに学んだところであります。
 さて、モーセにしてみれば、神様から授与された律法はもはやイスラエルの民にとっては絵に描いた餅であり、猫に小判、豚に真珠であります。 
 そのような状況において、神様はモーセを再度シナイ山に登りなさいと命じられたのです。その理由は契約の更新のためでした。つまりもう一度2枚の石の板に神の契約を書き記すと言われたのです。
 ここからまず第1に教えられることは、モーセが投げ捨てた神の教えは人間の手で破棄できるものではないということです(1節)。
 たとえ人がその教えが、守れないとしても、あるいは無用なものと思っても、人間がこの世界で生きて行くためには無くてはならないものなのです。それこそ、神様が契約を更新された理由なのです。 
 さらに、モーセの時代からおよそ1600年の歳月をかけて記されたものを聖霊によって集約されて完成したのが今日私たちの手にしている聖書であります。
 この聖書の価値の偉大さからすれば、あるいは聖書の高貴な教えからすれば、罪ある人間にとってはまさに「ウサギに祭文」のようなものかも知れません。
 しかし、この聖書は長い歴史の中で何度も絶滅の危機に瀕死ました。しかし奇跡的に聖書は守られたのです。そして、今日も聖書は毎年のベストセラーに輝き続けているのです。
 主イエス様は『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによる』(マタイ4章4節)と教えられたのです。
 人はパンを得るために働きます。それは生きるためです。しかし人が生きるのはパンのためだけではないということに、どれだけの人が気づいておられるでしょうか。
 そして人は何のために生まれて、何のために生きるのかという答えをどれだけの人が持っておられるでしょうか。
 しかし、それは多くの人々にとって、簡単なようで、実は非常に難しい質問であり、また率直な疑問ではないでしょうか。
 私は中学生3年生の時に、生きる目的とその意義について担任の教師に質問しました。先生の答えは、「今は高校受験の時や、そんなことは、大学に行って、哲学を学んだらいいのや」という答えが返って来たのです。
 もちろん納得のいかない答えでしたが、恐らく先生も分からなかったのではないでしょうか。
 それ以後、私は真理とは何かを追求する人生となり、10代の後半から、その真理を唯物論思想や無神論思想の中に求め、さらには毛沢東思想の中に求めたのですが、求めていた真理は見出せなかったのです。 
 ところが26歳の時にその答えをこの聖書の中に見つけたのです。私が見つけた答えとは、『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』でありました。(ヨハネ14章6節)
 さて、その後のイスラエルの歴史において、彼らのために更新された契約を守ることは祝福の道であったにもかかわらず、守り切れず、それどころか大きな重荷(負担)となって行ったのです。
 しかも聖書を教える指導者や宗教家たちもまた、人々に聖書を律法的なものとして教えたのです。イエス様が来られた時代において、宗教家たちが神の教えを正しく教えていなかったために、その間違った教えに縛られて、疲れ果てていた人々に語られたことばこそ『すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』(マタイ11章28節)なのです。 
 聖書は時として私たちの心を深く刺し通します。場合によっては無理難題を突きつけることさえあります。
 だれがこのような教えを守れるのかと訝ることもあります。
 聖書に聞いて、従って生きることは実にしんどいという結論を出すことさえあるかも知れません。
 まさに罪ある人間にとって聖書は重荷となるでしょう。時には聖書の教えが人生に窮屈さ(不自由)を与えてしまうものになるかも知れません。
 偶像に酔いしれていた民を見て、モーセは非常に怒り、手にしていた石の板を投げ捨てたのです。
 それは実に神の契約は罪ある人間には相応しくないものだと主張しているかのような態度です。
 しかし間もなく神は、そのような民のためにご自身の契約を再発行してくださったのです。
 それは、この神のことばであるこの聖書がどれだけ私たちにとって必要不可欠なものであるという神様の熱い思いがあったのです。
 神の教えが人間の手で破棄できないのは神の主権と神の愛によるものなのです。
 さて第2のことは、神の教えを受け取るためには、神の前での心備えが必要であるということです(2—4節)。
 すでに神様が書かれた石の板ではなく、何も書かれていない石の板2枚を用意しなさいとモーセに命じられたのです。このなにも書かれていな石の板の意味とは何でしょうか?
 少年サムエルが、『しもべ聞きます。主よお語りください。』と語ったように、神様のことばをよく聞いて、謙遜に、待ち望み、期待し、従順にという心備えを持って神様のことばを受け入れることが大切であるということが教えられるのです。
 そしてモーセが朝早くに神の山といわれたシナイ山に、しかもひとりで登ったように、さらに羊や牛が食する前に(?)山に登ることをモーセに命じられたのです。
 私たちもできる限り静かな所で、神のことばを受け取る時を優先するようにしたいものであります。
 神様のみことばは、私たちの人生の道しるべです。ですから私たちが歩むべき道の指針である聖書を1日の終わりに読まれる場合においては、みことばの指針は翌日のために有益なものとなるでしょう。
 今日1日の歩むべき指針は、まずその日の始まりにおいて聖書からの指針を求めましょう。
『朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。私に行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。』(詩篇143篇8節)
『みことばをさげすむ者は、身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける。』(箴言13章13節)
 神様の命令を守っていただく最高の報いとは、罪ある人間が永遠のいのちをいただくことです。
 荒野におけるイスラエルの民にとって神のことばはうさぎに祭文、犬に論語でした。
 そのことばが人となって来られたイエス・キリストによって、人間にとっては厄介な、あるいは不都合な律法を完全に成就された結果、神の律法によらずイエス・キリストを信じる信仰によって救いを受ける道を開かれたという恵みの時代が訪れたのです。 
 『御子を信じる者は、永遠のいのちを持つ。』   
          (ヨハネ3章16節)
『律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。』
(ローマ書3章20節)
 私たち罪人は、律法を完全に守れば神の義を受けるのです。しかしだれひとり完全に守りきれない神の律法を、キリストご自身が十字架の上で全うされたのです。
 本来私たちが負うべき罪のさばきは、イエス・キリストの十字架による罪の身代わりによって負うべき神からのさばきを全うされたのです。
『人は律法の行いによっては義と認められず、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。』
          (ガラテヤ2章16節) 
 人にとって神のことばは、うさぎに祭文、犬に論語(馬耳東風)でしかないものを、イエス・キリストによって神のことばを本来の値千金なものにしてくださったのです!