『天から降りて来られた神』 —モーセの神体験—  出エジプト記34章5—10節 16.2/14(日)

  『天から降りて来られた神』
    —モーセの神体験— 
   出エジプト記34章5—10節    
       16.2/14(日)
信仰生活において、何か切羽詰まった緊急の課題がある時に、時々思うことは、神様から直接声が聞こえたらいいのになあということです。皆さんもそのようなことはないでしょうか。
 その点モーセはいいと思われませんか。というのも神様自ら彼の前に現れてくださり、そして直接御声をかけてくださるという神体験をしているからです。
 では2百万(3百万?)以上の民がいた中で、なぜモーセだけがこのような神体験をすることができたのでしょうか。
 1つには、モーセは神様から特別に選ばれたイスラエルの指導者であったからだと思われます。
 2百万人とも言われたイスラエルの民のリーダーとなるためには、指導者としてのすぐれた能力の持ち主以上に、神様に喜ばれる信仰の持ち主でなくてはならなかったのです。
 では神様はモーセにどのような信仰が求められたのでしょうか。それは忠実さです。神様が命じられたおことばに忠実に聞き従うという信仰です。
 そのためには、どのような時であっても神様の御声をしっかりと聞き、そして聞き逃さないという常日頃の心備えが必要でありました。
 ところが、イスラエルの民が堕落した時には、モーセは心の平安を失い、落胆と失意の中にあったのです。
 それは神様の命令に逆らい、堕落して偶像崇拝に陥ったイスラエルの民への失望でありました。
 神様の御顔を間近にして、御声を聞いているから信仰は大丈夫というものでもないのです。つまりモーセのような神体験があれば、私の信仰は大丈夫という保証はないのです。
 さて、神様はリーダーとしての自信を失っていたと思われるモーセに再びシナイ山に登るようにと御声をかけられたのです。
 このようにやり直せる、再チャレンジできる、セカンドチャンスがあるというのは有り難いことであります。
 ペテロはイエス様を知らないと3度も否み、人生に取り返しのつかない禍根を残しました。しかし復活の主に出会って、ペテロは主に赦されたのです。
 一度きりの大切な人生を、身を売ってその日を過ごしていた不純な女性が、イエス様によって罪が赦され、死刑から助けられたのです。
 社会において、大きな失敗や過ちから再起することは容易なことではありません。でも信仰の世界は神様が再起を後押ししてくださるのです。
 神様はシナイ山にて、気落ちしていたモーセに現わされたのです(5—7節)。このときモーセは神様を目で見たのではなく御声を聞いたのです。 

Ⅰ.ともにいてくださる神様です。
 今日の私たちもモーセと同様に、神様は私たちの現状をただ見ておられるだけでなく、私たちのそばにいてみことばによって励ましてくださるのです。
 神様はモーセに直接語られましたが、今日はみことばを通して私たちに語られるのです。
 神様を信じている者は、みことばに聞き、みことばに従うことによって人生の変革が可能となるのです。
 その根拠はどこにあるのでしょうか。それは神様の本質にあるのです。『主。主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者.父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。』(6、7節)
Ⅱ.祈りを聞いてくださる神様です。
 8節、9節を見ましょう。モーセは、神様の御声を聞いて即座にひれ伏し、お祈りをしたのです。窮地に立っていたモーセがなすべきことは神様に祈ることでした。
 神様のご臨在に満たされ、神の御声を聞く時、恐れるものがあるのでしょうか。あるいは心配すことがあるでしょうか。
 たとえいかなる窮地や試練や恐れの中にあっても、また悩みや苦しみの中にあっても、神様の臨在の中にいるなら恐れや心配はなくなるはずです。 
 なぜなら神にとって不可能はないと信仰者は知っているからです。
 ここで大切なことがあります。それは、モーセが神様の臨在に満たされただけでなく、そして御声を聞いただけでなく、自らの気持ちや願いを御前にさらけ出した(言い表した)のです。つまりそれが祈りなのです。
 神様に臨在に触れることは素晴らしい体験です。そして御声を聞くことは光栄なことです。しかしそれらがモーセの苦境からの打開策とはならなかったのです。
 神様を知っているから、あるいは神様を信じていることがその人の人生を変革するのではなく、神様と直接交渉によって、神様はその人の願いを聞かれて、その人のための最善を尽くしてくださるのです。つまり、この直接交渉こそが祈りなのです。
 モーセの祈りは非常に具体的であることに気づかされるのです。しかもモーセの交渉は民の代表としての願いでもあるのです。
 私たちは小さい者ですが、国民の代表としての執りなし手でもあるのです。世界の民の代表としての執りなし手にもなりうるのです。
 私たちの神様はそのような祈りを拒まれるでしょうか。否です。終わりの時代です。今日こそグローバルな祈りが必要とされているのではないでしょうか。
 Ⅲ.具体的な祈りに応えてくださる神様です。
 最後は10節です。祈り手が具体的に祈るほど、神様の答えも具体的なものとなるのです。
 いつ、何によって、どこで、何をなし、その結果がどうなるのかを語られたのです。
 私は、祈りにおいて同じことの繰り返しになりがちです。もっと具体的に祈る必要を感じることもあります。確かに試練の時は具体的に祈っているのですが。祈りについて改めてモーセの祈りから学びたいものであります。
 終わりに、たった一度きりの人生において、たった一つの出来事によって、大きな試練に見舞われて再起不能と思われるような状態から救われた家族のお証しを紹介させていただきます。
 今から33年前その家族は、東京の八王子市に住んでおられました。ご主人は中古自動車の販売店の社長。事業は順調でした。
 ところがある日自宅に、見覚えのない高額の請求書が舞い込みました。さらに他からも高額の請求書が来たのです。それは、友人の保証人となったためのものでした。その友人は事業に失敗してどこかに行方をくらましたのです。そのために友人のすべての借財をご主人が負う羽目になったのです。その金額も何千万を優に越えるものでした。最初は何とかしないといけないと思い、親戚にお願いしてお金を工面できたのですが、500万円、700万円と支払うものの、すぐに別のところから請求書が来るという危機的な状況でした。
 ある夜、ご主人が、苦しい状況を聞いてもらうために、入信している新興宗教の集まりに出向かれたのです。ところが、そこでの答えは拝み足らんからという一言でした。帰りは酒に酔って、溝にはまり、頭から血を流しながら家に帰宅したのです。
 ほんの数日前までは順風満帆の生活から一転不幸のどん底でした。税務署からの差し押さえという日に、とうとう追いつめられて夜逃げ以外に道がないと判断されて、翌朝早くに車で関西に向かわれたのです。
 関西に到着後、親戚に助けられ、家具や日用品が備えられました。それから数年経っても家に請求書が舞い込み、そのたびに引っ越しを余儀なくされたのです。そのような時に、私の誘いでこの家族で教会に行かれるようになり、娘さんが受洗。ところが長い間(およそ10年)のストレスもあってご主人は脳動脈瘤のために入院。術後気がつかないまま世を去りました。享年63歳でした。幸いにも神様を求められて近くのキリスト教会に出席しておられ、数ヶ月後にイエス様を信じておられたのです。葬儀は教会にて執り行われました。
 ご主人は一代で築き上げた会社もマイホームも失いました。でも救い主イエス様を見出されて天国を手にされたのです。その後、生前奥さまに、「お前イエス様を信じなかったら地獄に行くよ。」とよく言っておられたようですが、それを冗談のように聞いていた奥さまも受洗され、今は埼玉のある教会のメンバーであります。
 以上のことは、私の身近な方のお証しです。この家族のために長い間祈らせていただきました。この出来事は、神学校時代と牧師になって間もない私にとっては、貴重な神体験となりました。
 神様はいつでもどこでも、どんな時でもともにいてくださいます。そして、たとえ私たちの祈りがつたないとしても、執拗な祈りに耳を傾けてくださり、また応えてくださるのです。
ハレルヤ!