『神の幕屋の建設(Ⅰ)』 —大切な心得— 出エジプト記35章1—19節 2016年 2/28(日)

     『神の幕屋の建設(Ⅰ)』
     —大切な心得— 2016年 2/28(日)
         出エジプト記35章1—19節 
 日本において新しい建築が行なわれる時には、地鎮祭という儀式が行なわれることが多いのですが、どのような儀式かと言いますと、建築工事を始める前に行なう、その土地の神(氏神)を鎮め、土地を利用させてもらうことの赦しを得るというものです。
 一般的には神を祀って工事の安全祈願祈る儀式という認識があります。
 翻って今からおよそ3500年前のモーセの時代においてはどうでしょうか。
 これからモーセは神様の命じられた通りに幕屋の建設に取りかかろうとしています。その建設を始める前にモーセがしたことは、安息日遵守の確認です。
 日本も一昔は日曜日も休まずに工事をするということが一般的でしたが、最近は建築会社も日曜日が休みとあって、休みなしの工事現場は見かけなくなりました。
 但し日本の日曜日の考え方は、休日という認識だけであって、その意味や意義について考えるということはあまりないのではないかと思います。
 もしモーセ十戒がなければ、その後の人間社会において、果たして今日のような休日が制定されていたかどうかは定かではありません。
 日本も明治時代になって、諸外国との関係の中で日曜日という休日の必要性に迫られて、ようやく制定されたという経緯があるのです。
 事実日本が第二次大戦下においては月月火水木金金という歌が歌われていたほどに、本来の日曜日の意義については全くの無関心であったと言えるでしょう。
 ということで、けさはモーセが神の幕屋建設を始める前に安息日の厳守だけでなく、その他の大切な心がけについて2—19節から見て行きましょう。
1. 安息日を守る中で工事に取り組む
(2—3節)。
2. 心から進んでささげられた材料を用いて工事が進められる(4—9節)。
3. 心に知恵ある者の手によって工事が進められる(10—19節)

 第1の心得:安息日を守る中で幕屋づくりに取り組む(2—3節)。
 イスラエルの民は、エジプトにおいて430年間奴隷でした。もちろんエジプトの支配者たちが奴隷であったイスラエルの民に休日を与えるということはあり得ないのです。
 強制労働による超過酷な労働を終えた夕べだけが彼らの唯一の安息ではなかったでしょうか。そのような民の苦悩からモーセによって解放されたのです。
 もちろん背後に神様の御手があったことは言うまでもないことです。
 主はイスラエルの民を自由の身とされたのです。しかしその自由は神様の抜きの自己本位的な自由ではなく、神様のことを忘れることなく、神様とともに生きる中で享受(謳歌)できる自由であります。
 そして彼らが神様とともに生きるということを常に心の留め置くためには、どうしても安息日の制定が必要であったのです。 
 もちろん安息日の制定は神様ご自身のためでもありますが、それは人間にとっても非常に大切な戒めなのです。
 では、『安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ』という命令において大切なこととは何でしょうか。
 もちろん人間にとって毎日が大切であるというのは言うまでもないことです。ですから、他の日が安息日より劣っているとか、重要でないとかということはなく、何を差し置いても(優先的に)この日を安息日にする、つまり身体を休ませて、神様を礼拝して心も魂も体もリラックスさせる日でもあるということなのです。
 彼らが荒野に40年以上もさまよいました。もし彼らに安息日がないとするなら、恐らく周期的な曜日も関係なく、しかも荒野の中です。生活にリズムなし、メリハリなく、だらだらと日々が過ぎると言うことは、体にも心にも悪い影響が及んだはずです。
 たとえ試練の荒野生活の中であっても、神様を忘れずに生きる。神様を見上げて生きることは非常に大切なことであったのです。そのために民にとっては、安息日の遵守は必要不可欠なことでした。
 さて幕屋づくりにおいて、まずモーセ安息日の遵守を命じたのは、もちろん、働く民が休息なしに建築をするべきでなかっただけでなく、幕屋は単なる建築物ではなく、まさに神様が宿られる霊的な建物であることを心に留める必要があったからではないでしょうか。
 これから始まる工事は、神様のためのものであり、イスラエルの民とともにおられる神様の祝福に関わる工事でもあったのです。
 新約時代に生かされている私たちも主の日(聖日)を覚えて、共に交わり、共に主を礼拝し、そして兄姉たちの賜物が用いられて奉仕をすることが、どれだけ神様の祝福にあずかることであるかを覚えなければなりません。
 今日のユダヤ人にとって土曜日の安息日は非常に重要であり、極めて大切にしています。
 しかし彼らは他の何よりも重要課題とすることは良いことではあっても、安息日を厳守することに固執し過ぎて、本来の安息日の真の意義は失われているのが現状ではないかと思われます。
 神様の命令を常に大切にして、そして神様からの恵みを忘れることがないために主の日をささげることが、神様に喜ばれる安息日理解ではないでしょうか。
 何よりも優先して、主の日は礼拝をささげるという熱い思いの根底には、主イエス様が罪ある私のために身代わりになっていのちをささげてくださり、その主を信じて永遠のいのちにあずかるという祝福と恵みに対する心からの感謝と応答があるからではないでしょうか。
 恐らく礼拝が遠のいていくと、私たちの心も神様からだんだん遠のいて行くように思います。主が来られるまで主の日を聖別していきましょう。
 第2の心得:心から進んでささげられた材料を用いて工事を進める(4—9節)。
5節の心から進んでは英語ではWiling(自発的な、進んで、喜んで、快く)であります。 
 ボランテイアとの違いとは、ボランテイアは全く自分自身の自由な意志や選択によって行なわれるものであり、Wilingは第三者との関わりの中で、他人の希望や、指示などに嫌がらずに、または喜んで従うということであります。
 心から進んでとは、だれに意思も評価も介入できないものであり、だれかと比べるものでもなく、それは人に向かう心ではなくダイレクトに神様に向かう心であります。 
 神様が私たちに与えてくださった自由とは、神様のためにしても、しなくても良い自由ではなく、神様のためには、嫌々ながらでなく、喜んで、心から自発的にささげるというものなのです。
 そのような自由を持つ心を主は求めておられ、またそのような心を見られるだけでなく、喜んでくださるのです。
『兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛を持って互いに仕えなさい。』(ガラテヤ書5章13節)
 このような心がけは、教会の奉仕において、献金においても相通じる信仰姿勢の大切な原則ではないでしょうか。
 最後の心得:心に知恵ある者の手によって工事を進める(10—19節)
 民たちが進んで幕屋建設のために必要な材料をささげるだけでなく、その材料がうまく用いられなくてはなりません。
 そのために心に知恵ある者(36章1節参照)の匠の手が必要なのです。
 教会は何かをささげる人が必要だけでなく、ささげたものを正しく用いる人、しっかりと管理する人、効果的に運営する人が求められるのです。
 モーセの幕屋づくりにおいて、心に知恵ある者は36章1節にあるように神様が備えてくださったのです。
 今日ではその人の賜物が活用されるということではないでしょうか。そしてその賜物は、初めから備わっているというだけでなく、奉仕をささげて行く中で、必要な賜物が神様から与えられるのです。
 ただし、いかなる奉仕にも優劣の違いはないのです。あるとすれば、奉仕をする人の心構えの違いだけなのです。
 時々私は何も奉仕ができないという方がおられます。しかし、教会にはなくてはならない大切な奉仕もあるのです。それは祈りの奉仕です。そして、それはクリスチャンにとって最高の特権と言えるのです。
 ですから主の教会の中には、だれにでも自分の居場所があるのです。主の日(安息日)を喜んで遵守し、心から進んでささげ、神様に与えられた賜物を用いさせていただくことが、教会建設の大切な心得なのです。そのためにキリストの体である教会に集う一人一人が必要とされているのです。