『幕屋の建設(Ⅱ)』 〜神の霊に満たされて〜 出エジプト記35章30−36章7節 16.3/6(日)
『幕屋の建設(Ⅱ)』
〜神の霊に満たされて〜16.3/6(日)
出エジプト記35章30−36章7節
そもそも幕屋とは一体何でしょうか。そして、なぜ神様は荒野に幕屋を建てるように命じられたのか。
つまり荒野での幕屋建設にはどのような意義があるのかということであります。
それはまず第1に、神様は幕屋においてご自身の栄光を現されたのです。それでイスラエルの民は神様がともにおられることを体験した(40章34、35節)。
第2に、幕屋によってイスラエルの荒野での旅路の安全を守られた(40章36−38節)。
第3に、神様への真の礼拝を幕屋において体験した(レビ記において)と思われます。
その原型がやがてソロモンの神殿となり、後にバビロン帝国によって破壊されますがペルシャ王のクロスに許可されて神殿が修復され、後代にはヘロデ大王が神殿を修復するようになるのです。
イエス様がしばしば話されていた神殿とは、ヘロデ大王時代の神殿でありました。この神殿はイスラエル人にとって非常に重要なものであり、それは神様の栄光を目の当たりに体験できるという偉大で壮大な宗教的建造物であったのです。
ですからユダヤ人たちは、今日もなお神殿再建の夢を持ち続けているのです。特に近年はその機運が非常に高まって来ているということであります。いよいよ終末の顕著なしるしが起ころうとしている時代でもあるのです。
さて、現在からさかのぼることおよそ3500年前に、モーセがシナイ山にて神様より幕屋建設の指示を受けたのです。
35章1−29節までは材料集めでありました。これらの材料は、エジプトから逃れる時に神様からエジプトの財宝を持ち去るようにと命じられた物でありました。
これらは、彼らが奴隷としてエジプトで働いたことにおける当然の対価であったと思われます。しかもそれは、イスラエルの民が自ら進んでささげた物で必要が十分満たされたのです。
このことから、神様は民の必要は前もってちゃんと備えてくださっていたことを見ることができるのです。
ですから私たちの将来の必要もご存知ですから、あまり心配し過ぎないようにしたいものです。
さて、35章30節から36章7節は、集められた神殿の材料を使っての幕屋づくりであります。そこで神様は、設計、施工に巧みな人を選別されるのです。
そのために選ばれたのが、30節に紹介されているように、ユダ部族のフルの子であるウリの子ベツアルエル(神の陰にいる者、神の保護の意)を名指しで召し出されたのです(30節)。
33節には、ダン部族からオホリアブ(私の天幕は神であるの意)を召されたのです。
おそらくベツアルエルは技術長(頭領)で、オホリアブは助手(副頭領)として働いたと解されています。
31節の文面を見ると、一見神様がベツアルエルに匠の能力を与えられたかのように解されるのですが、実は彼はもともと高い技術能力を持っていたと思われます。
それは本来持っていた能力が奴隷であった時により磨かれたのではないかと思われます。
しかし、彼が他の人よりもすぐれた能力を持っているというだけでは、神の奉仕はできなかったのです。
神の幕屋建設においては、霊的な備えが不可欠であったゆえに、神様は彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神様の霊を満たされたのです(31節、35節、36章1節)。
持って生まれた能力を神様のためにより用いられるためには神様の霊に満たされるというプロセス(課程)が必要なのです。
それは、その人に与えられている才能やすぐれた能力がほめられるためではなく、そのすぐれた才能や能力が神様の奉仕のために用いられることによって、神様の御名がほめたたえられるためであります。
すぐれた知恵で満たされたオホリアブ(副頭領)もまた同じことが言えるのです(36節)。
確かに、他の人よりもすぐれた才能や能力を持ち合わせていることは素晴らしいことでありますが、それを誇らしげになり過ぎることには注意を払わなければいけないのです。
自慢は高慢につながり、それはいつしか人をさばく材料になりやすいからです。神様から才能や能力が与えられているものが、神様に喜ばれる賜物となるように心がけたいものです。
さて、すぐれた匠はふたりだけでは、もちろん幕屋は建てられません。35節では、ふたりは幕屋を造るための設計部門で用いられたのです。
そして神様は、それを実際に造り上げていくための技術者も求められたのです。その条件とは、聖所の奉仕にすべての仕事をすることのできる知恵と英知を主に与えられた、心に知恵ある者でした(35章35節、36章1節)。
神様が技術者を求められた結果、この幕屋造りに感動して、自ら進んで仕事をしたいと申し出た人たちをモーセは呼び寄せたのです。
神様の奉仕をする際の心がけについて教えられるのです。それは、感動する心と、自発的な心であります。もちろんだれかがしないといけないという思いで、主の奉仕をすることもあると思います。
あるいは自分がしないと、する人がいないために奉仕を続けているということもあります。
そのような気持ちで奉仕を続けていく中で、いつしか疲れを覚える時もあるでしょう。いいかげんにだれかに代わって欲しいと思う時もあるはずです。たしかに同じ人が同じ奉仕をし続けることに弊害も生じて来ることもあるのです。ですから、出来る限り多くの人が他の奉仕を経験することも大切かと思います。
この2節から、そのような思いの中で大切なことを教えているかと思います。
それは神様のためにという熱い思いを失わないよういしたいものであります。『霊に燃えて主に仕えなさい:熱心に主に仕えなさい(LB)』(ローマ書12章11節)
2節をもう一度見ましょう。感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者。
それは主が知恵を授けられ、心に知恵ある者でありました。
今ふたりの指導者と調度品を造る匠が集められたと同時に、その必要な品物も民は自ら進んで持って来たのです。
それは朝ごとにささげられたのです。ところがある日に、幕屋の仕事をしていた人たちが、モーセの所にやって来て、『民はいくたびも、持って来ています。主がせよと命じられた仕事のために、有り余る奉仕です。』と告げたのです。
今神の幕屋建設のために必要は十分満たされた結果、民は奉納物をささげることを中止したのです(5—7節)。
神様のためにささげる時の心得について教えられます。
自分ひとりぐらいという心がたくさん集まると大変なことになります。その最悪の結果は何も集まらないのです。
しかし、それでも必要が与えられるのは、自分がささげないという思いの人がおられるからです。もしひとりひとりが、自分がささげないという思いになるとき、この幕屋建設の時のように、「もう十分であり、有り余るほどであった。」とささげることが中止されるほどにまで祝福されるのです。
昨年の私たちの教会の財政は黒字でした。
それは皆さんが教会の財政の祝福のために祈ってくださっているからだと思います。何よりも尊いささげものをしてくださっているからです。
およそ22万円という繰越金には大切な意味があると思います。
例えば、ひと月に換算すれば1万8円です。1日に換算するなら600円です。まさにひとりひとりの心がけによってなり得る金額です。
私ひとりぐらいという気持ちがあったなら、達成しなかったという献金額です。
私はこのことを通して大切なことを学びました。それは私たちの教会は今、ひとり一人が大切であること。そしてひとり一人が必要であること。またひとりが痛むことは他の人の痛みでもあるのです。ですから互いに気を配り合い、心を掛け合い、祈り合うことを学び合う良い機会としたいものであります。
主の体である教会は、皆さんひとり一人が各器官であるというパウロの教えを学んでいきましょう。
『それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各部分なのです。』
(コリント第Ⅰ12章25—27節)