「満ち足りる心」第一テモテ6章6−8節  2016年5月1日(日)メッセージの要約 港教会にて

「満ち足りる心」第一テモテ6章6−8節  2016年5月1日(日)港教会にて
 「所有すればするほど、捕らわれてしまうのです。より少なく所有すれば、より自由でいられます。」マザーテレサさんの格言です。
 今年3月31日に定年退職し、65年近く住み慣れた土地を離れて大和高田市に引っ越した。何度か引越しをして今回で終のすみかになればと願っている。 
 何百冊もの本を後任牧師に使っていただこうと牧師館に置かせていただいた。実は引越し先ではそれだけの本を収納するスペースがない。そして今回の引越しにおいてできる限り不要なものを廃棄した(simple is best)。その結果、気持ちが楽になった。物がないと不安。欲しい物を手に入れないと落ち着かないという物欲から、年とともに解放されてきたのかも知れない。確かに人は年を重ねるに連れて物欲や執着心から解放されていくのかも知れない。だからと言ってその人の心が豊かであるか、あるいは満たされているのかは別物である。物質的な充足が必ずしも心の充足を満たすものではないことは、私自身が一番よく知っている。
 テモテの手紙第一6章6節「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」とパウロは語る。口語訳では「満足の伴う信心は、大いなる利益です。」と訳している。「満ち足りる」や「満足」という言葉の元々の意味は、完全な自己充足を意味し、外的なものから独立し、そのもの自身に幸福の源を持っているという心の状態である。真の満足は外からではなく内から、つまり心からくるのです。もちろんパウロは、真の神を信じている心にこそ本当の満たされた心があり、さらに信仰に伴う敬虔こそ大きな利益を受ける道であると語っている。
 今回の熊本地震では実に1000回以上の余震が続き、被災者は不安な日々を送られている。家の倒壊や家族の方が犠牲となられた方がたくさんおられる。近年、阪神淡路大震災、新潟中越沖地震東日本大震災において、人間にとって本当に大切なものは何かを気付かされながら、時が経つと物欲の再燃を繰り返しているのではないだろうか。失って初めて気づく大切なもの。ところが、時が経てばすぐに忘れ去り、世の物で心を満たそうと奔走(自問)。
 「所有すればするほど捕らわれてしまうのです。」と冒頭のマザーテレサさんの言葉。そして「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また持って出ることはできません。衣食があれば、それで満足すべきです。」(7、8節)とパウロの言葉。
 両者の言葉の背景には、イエスを信じる心にこそ真の平安と満たしと喜びがあるというキリスト信仰があるというのは言うまでもない。
 私たちの罪からの救いのために、人となられてこの世界に来られた神の御子は「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6章35節)と約束してくださったのです。