『聖所から学ぶ霊的真理と祝福』 —主イエスの贖いを知る―  出エジプト記37章1—9節 2016年7月24日(日)

『聖所から学ぶ霊的真理と祝福』
    —主イエスの贖いを知る―
   出エジプト記37章1—9節16/7/24
 前回において天幕作りにおける4枚の幕、枠組みの板、横木から教えられる霊的真理ついて学びました。
 けさは、至聖所に置かれる契約の箱から霊的な真理とその祝福について学びましょう。
 
 まず第1は、主の奉仕が祝福されるためには、神の霊に満たされる必要があった(36章1節)。

 1節のベツアルエルという人物についてですが、彼については35章30—35節に記されています。「彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊に満たされた......。」   
 また36章1節でも、「ベツアルエル、オホリアブは、聖所の奉仕のすべての仕事をすることの出来る知恵と英知を主に与えられた。」と書かれています。
 37章においては、至聖所に置かれる契約の箱(贖いのふた、ケルビム)と聖所に置かれる机、燭台、香の壇の制作について書かれています。ここでは『彼』はという言葉が5回出て来ます。
 そして38章では祭壇、洗盤、庭の製作。38章では『彼』という言葉が6回出て来るのですが、ただしオホリアブは彫刻と刺繍を担当してベツアルエルの協力をしていたように思われます(38章23節)。
 37章(至聖所)から38章(聖所)における調度品のほとんどはベツアルエルによって作られたと思われます。
 39章では祭司(アロン)の式服(エポデ)の製作。39章では『彼』は2回ですが『彼ら』という言葉が9回出て来ます。式服(エポデ)は複数の人たちによって作られたようであります。
 神様はベツアルエルに神の霊を注がれたのです。それは幕屋において最も重要な調度品を作るためなのです。
 神様が選ばれたベツアルエルはもともと心に知恵ある者でした(35章10節)が、神様が求められる調度品を巧みに作るためには、神様の霊に満たされる必要があったのです。
 つまり神様が求められることをやり遂げるためには神の霊(聖霊)の力と助けが必要だったのです。
 さて、ここではものづくりでありますが、イエス様が弟子たちを選ばれた時は、彼らは無知と無学で、欠けも多く、荒削りで、しくじりもして、よく主から叱られました。
 そのような彼らが、神様の働きをする弟子として用いられるにほど遠いものでした。 
 ところが、ペンテコステの時に聖霊を受けた彼らは一変したのです。そして主の弟子にふさわしい器となることができたのです。
 それはものづくりではなく、罪による永遠の滅びから人々を救い、神の子ども(弟子)とする魂を扱う働きでした。
 そのような尊い主の働きは、ことばの巧み、豊かな聖書知識、説得力だけではできなかったのです。
 たしかに、教会における主の奉仕は自分の能力や努力でも出来ます。しかし、それだけで主の奉仕(働き)を続けていきますと、いつしか限界を感じる時が来るものです。 
 たとえば、自分は何のために、あるいは誰のために奉仕をしてきたのか、そして、奉仕の意義を見失う、あるいは奉仕がいつしか義務的、強制的なものとなり、ついには、奉仕をする喜びや感謝がなくなってくるということが起こってくるのです。
 ところが、もしその人が主の霊に満たされるなら、その奉仕は神様によって祝福されていくのです。
 神様の働きにおいて聖霊様の力と助けが不可欠であるということであります。
 なぜなら主イエス様も御霊の力によって働かれたのです。『イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。』(ルカ4章1節)

 第2は、契約の箱について見ていきましょう(1—5節)。

契約の箱は、幕屋の中心的な調度品です。最も神聖な器具でもありました。これを中心にして幕屋の構造が形作られた言われるほどです。
 しかもそれは神様の臨在のシンボルでもあったのです。
 例えばこの箱は純金で覆われています(2—5節)。この純金は何を表しているのでしょうか。
 それはイエス・キリストの神性を表している(ご臨在)と思われます。
 そして、その箱には棒がつけられていて、持ち運びが可能となっているのです。
 つまり、主のご臨在はいつでもどこでも現れるということであります。
 私たちクリスチャンも、この世が最終地ではないのです。いつしか、すべての人は必ずこの世を去らなければならないのです。
 しかしこの世に執着心を持って生きているという人が少なくありません。
 私たちは、いつでも、しっかりと認識しましょう。神の子どもの最終行き先は神の御国です。
 ですから、この世にあって私たちは寄留者であるという認識を持つことです。 
 当時、幕屋を移動するたびに持ち運びされた契約の箱は、今日ではイエス・キリストへの信仰によって神様がいつでもどこにでも、ともにいてくださるとう型でもあるのです。
参照:出エジプト記13章22−23節
    ヘブル書13章5節

 第3は、「贖いのふた」について見て来ましょう(6—9節)。

 蓋はCoverです。創世記6章14節で箱舟に木のやにを「塗る」とは覆う、隠すという意味があります。
 贖いの蓋には、ケルビム(神を礼拝する天使、神をたたえることに関わる天使(参照:創世記3章24節)が両端に付けられています。それらは贖いの蓋を覆っているのです(9節)。
 ケルビムは、主のご臨在を象徴する箱を見ています。そこに大祭司が年に一度(ユダヤ暦第7の月テイシュリの10日、太陽暦では9、10月)、動物(雄牛)の血を注ぎます。それは大贖罪日と呼ばれものです(ヘブル9章7節)。
 それは、民の罪の代わりに動物の血が贖いの蓋に注がれ、ケルビムがその犠牲の血を注がれた贖いの蓋を覆うことによって、イスラエルの民の罪による神の怒りがなだめられます。
 そして契約の箱はイエス・キリストの神聖を象徴することを先ほど見ましたが、今日的な意味では、イエス・キリストが十字架で流された血は、私たちの罪をあがなうために流された犠牲の血であります。
 キリストの義は私たちの罪をおおい、そして私たちはキリストのおかげによって義とみなされるのです(ローマ書3章24節、第2コリント5章21節)。
 『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』(第1ヨハネ4章10節)
 へブル書9章5節の「贖罪蓋」とは、贖いの蓋のことです。そしてその言葉は、ローマ書3章25節と第一ヨハネ4章10節の「なだめの供え物」と同語です。
 第2コリント13章8節に
『愛はすべてをがまんし』とあります。このがまんするもまた「おおう」という意味です。
 幕屋のおける契約の箱とそれを覆う贖いの蓋は、神が私たちの罪をおおうための血を御子キリストに求められ、キリスト私たちのために苦しまれ、尊いいのちを捨てられることを予表していたのです。
 神は罪人の救いのために、全身全霊をもって行動されたのです。
 神様は、まことの愛を行動によって示されたのです。それによって私たちは真の愛とは何かを知ったのです。
 私たちの罪のために父なる神様は、御子を十字架のいけにえとしてささげて下ささったゆえに、私たちは救われたのです。 
 幕屋の学びを終えるにあたり、これほどまでに愛してくださっている神様を再認識しましょう。 
 また私たちは、どれほど神様を愛しているのか、そして、その愛は冷めてはいないのかを再確認しましょう。