「痛みから神の愛」 ルカ6章27−36節 (要約) 2017年2月5日(日)港キリスト教会

  「痛みから神の愛」 ルカ6章27−36節 (要約) 2017年2月5日(日)港キリスト教
 
 ルカ6章27節から29節の中に、精神的(27節)と肉体的、物資的(29節)な痛みがある。これらの痛みを受ける時に愛が試される。
 さて、敵を愛することは、人間の知情意(知識・心情・意志)では不可能と思われる。しかし、あなたに様々な痛みを与える敵に対して、あなた自身の愛が試されているのではなく、信仰によって与えられた神の愛に生かされているかどうかを試されている。
 ダビデは、サウル王の妬みや憎しみから来る不当な殺意によって命を狙われた。そして何度かサウル王を殺すチャンがあったにも関わらず、ダビデは王を殺さなかった。その理由は、何よりもダビデは油注がれた者に手を下してはいけないという神の命令を守り、サウルから受けるあらゆるダメージを、神を愛するまた神を畏れる信仰によって克服できた。
 主は、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。」(マタイ5章43節)と教えられた。
 主が敵を愛せよと言われた理由は、「それでこそ、天の父の子どもとなれる。」からである。たしかに、私たちは神様を信じて神の子どもとされた。たとえ私にダメージを与える人を愛せなくても、赦せなくても、祈れなくても神の子どもであることに変わりない。でもこのような神の子ども理解で良いのか。
 たとえば、ある両親に子どもが与えられて大きな喜びとなった。しかもお父さんはノーベル賞を受賞する立派な人。ところが、その子どもはあまりできが良くなかった。そのために、その子供は父親と比べられ、侮辱され、馬鹿にされた。でも父親は、能力的にはできが悪い子どもであっても、両親を敬い、従い、人にやさしく、親切で、あわれみ深い者なら、ノーベル賞の受賞よりも大きな喜びと思っていた。
 マタイ5章48節で「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」
この完全さとは、先ほどの父親が望んだ子供のように成長して欲しいということである。つまりこの完全さとは「目標・目的・極限」を意味し、より成長して行くことを意味する言葉である。
 神様は、私たちに神様と同じようになりなさいと命じておられるのではなく、罪人であるあなたがたは神様に愛されているように、キリストによって赦されたように、そして、あわれみを受けたように、他の人にも同じようにできる子どもになって欲しいと願っておられる。
 それは「だから」「もし..なら」の愛ではなく、無条件で、無償で、無限で、与え尽くす愛である。その愛は御子キリストが十字架の上で明らかにされた。
 そして、キリストの十字架には二つの意味がある。1つは神を知らない人にとって、神の愛とはどのようなものかを示し、もう1つは神様を信じている者にとって、救いを受けたという過去の保証にとどまらず、いつでも、どこでも、この地上にいる限り、キリストの十字架は神の愛の模範であり続ける。
 主イエス様は、マタイ5章16節「このように、あなたがたの光を人々の間で、輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」と言われた。
 もし、私たちが何らかのダメージ(痛み)を受けるなら、それはきっと私たちの愛がテストされていると思いたい。精神的・肉体的・物資的ダメージ受けるというテストはだれも望まない。しかし、それは神様の愛を体験する機会となり、それによって私たちが世の光となり、周りの人が、神様の愛を知る良い機会となる。できの悪い子どもではあったが、その行いによって父の栄誉を汚すことはしなかった。私たちも神様の栄誉を汚さず、神様の栄光をほめたたえる者になれるように成長していきたいものである。