「人をさばいてはいけません」 ルカ6章37節38節 要約 2017年2月19日(日) 港キリスト教会

「人をさばいてはいけません」ルカ6章37節38節 2017年2月19日(日)

 主は「人をさばいてはいけない」と命じられた。では、聖書はさばきについてどう教えているのか。まず第1は、間違ったさばきについて。当時、パリサイ人や律法学者の偽善的な信仰が人をさばいているという状況の中、さばいてはいけないというイエスの勧めである。でも、聖書は決してさばくことを否定しない。さばくこと自体が問題ではなく、さばく人に問題があった。彼らは、神のさばきづかさのように振る舞っていた。一体だれが人を罪に定めて、永遠の滅びを宣告できるのか。この世で法を犯すと、この世の法でさばかれる。しかし、神様に対して罪を犯した人は、神様によってさばかれる。私たちは、決して神の目線で、また聖書の権威を振りかざして人をさばくことがあってはならない。第2は、兄姉の信仰の姿勢をさばくことについて。
「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」(ローマ14章1節)信仰者が、特に気を付けるべきことは何か。それは、聖書の教えの基準を、アドバイスではなく、信仰姿勢に当てはめ、その人の信仰についてさばく(評価する)ことです。パウロは、ローマ14章12節で「人のことではなく、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。」と語っている。つまり、神様が受け入れている人をさばくのは、神様をさばくのと同じであり、その人は神のさばきを決して逃れることはできない。第3は、さばきは必要なのです。
「外部の人をさばくことは、私たちのすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人ではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。」(第一コリント5章12、13節)非常に残念なことに、教会の中に罪の悔い改めに応じないクリスチャンたちがいたために、教会はそのような人々をさばかなければならなかった。それは、主の栄光が汚されないためであり。また信徒たちのつまずきを避けるためであった。
 最後は、肉の思いからくるさばきについて。
「兄弟たち。互いに悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。」(ヤコブ書4章11節)このさばきは、私たちクリスチャンが犯しやすいものです。カルビンは「他人を中傷するのは、自分を高めようとするところにある。」と言いました。自己中心の愛、隠れた高慢、砕かれない自我などは、兄弟をさばきやすい傾向となるゆえに要注意。自分を義とし、他の人を見下している者たちに対してのイエスのたとえに耳を傾けよう。
パリサイ人と取税人は祈るために宮に上った。パリサイ人は、「神よ。私は他の人々のようなゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことに感謝します。断食も献金も守っております。」ところが、取税人は、宮から遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸を叩きながら、「神様。こんな罪人をあわれんでください。」義と認められたのは取税人である。