「与えなさい」−イエスの心を持って−  ルカ6章38節  2017年2月26日(日)港キリスト教会

「与えなさい」−イエスの心を持って−  ルカ6章38節 2017年2月26日(日)港キリスト教

 「自分にしてもらいたいことは、他の人にも、そのようにしなさい。」は黄金律(ゴールデンルール)と言われている。敵を愛する、人をあわれむ、人を赦す、人をさばかないという主のご命令もまた黄金律に匹敵する。これらの思いが行動となってこそ、黄金律と言えるのではないだろうか。その後に続いて主が言われた「与えなさい」についても同様である。

 さて、主が命じられた「与えなさい」は文脈(前後関係=コンセンサス)から見て、まず第1に、与えるとは、敵を愛する、あわれむ、赦す、さばいてはいけないという人を大切にする心である。というのは、もしこのような思いと相反する心であるなら、「与える」ことは非常に難しい。 

 それでは、「与える」ことを可能にする秘訣とは何か。それは、「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深くしなさい。」というみことばにある。では、神様のあわれみとはどのようなものなのか。それは、父なる神様が、罪人を愛し、あわれみ、赦し、罪による永遠のさばきから救うために、御子イエスが私たちの罪の身代わりとなられたという行為である。そのことによって、私たちは、神様がどのようなお方かを知ることができ、御子イエスを信じて、罪の赦しと永遠のいのちを受け、神の深いあわれみと大きな愛を体験したのである。
 ですから、主イエスは、あなたがたは、そのような大きな愛を受けたのですから、他の人々にも与える人になるようにと命じられたのではないだろうか。

 第2は、「与える」ことは失うことではない。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。」と教えているが、創世記に登場するアブラハムの家族と、おいのロトの家族の持ち物が増えるにつれて、お互いに争いが生じた。そこでアブラハムは、別々に住むことをロトに提案した。アブラハムはロトに優先権を譲り、ロトは低地の潤った良い地を選んだ。人間的に考えるなら、年長のアブラハムに優先権があり、良い地を自分のものにできた。しかし、いつも神に聞き従っていたアブラハムは、土地を選ぶ優先権をロトに与えたと思われる。
 その後のアブラハムは、神様が約束された通りに、多くの祝福を得た。ところが、ロトとその家族は、肉の思いによって、後には低地に移り住んだ。やがて、ソドムとゴモラの不道徳によるさばきに巻き込まれ、ロトと娘2人だけがさばきから逃れた。しかし、彼らはすべてを失ってしまうという結末を招いた(創世記13章)。
 では、「与える」ことは失うことではないという保証はどこにあるのか。それは、聖書のみことばを信じて歩んだアブラハムの生涯に見ることができる。神様のみことばを信じて生きることが、クリスチャン生活の基本であり、クリスチャン生活が豊かにされる秘訣ではないだろうか。

 第3は、「与える」ことは、自分が潤うだけでなく相手も潤う。箴言11章25節には、「人を潤す者は、自分も潤される」と書かれている。
 悪徳な税金取りたてをして、同胞のユダヤ人たちに忌み嫌われていたザアカイは、イエス様に出会って罪を悔い改めた結果、お金のみ、自分のみを信じるという生き方には、本当の幸せや満足がないことに目覚め、自分の財産の半分を貧しい人に分け与え、だまし取った人には4倍にして返した。その結果、彼は人を潤しただけでなく、自分をも潤された。
 ザアカイは、キリストを信じた結果、キリストの心を持つ人に変えられ、自分の幸せだけでなく、他者の祝福ためにも、喜んで分け与えた(ルカ19章)。
 主が、「与えなさい」と言われた意図と目的は、与えた人と与えられた人がともに潤うことにある。私たちもキリストの心を頂いている者として、自分の幸せだけを求めるだけでなく、人にも良いものを与える者になりたい。
「また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。」(テモテ第一6章18節)