「人々を神のもとへ導くために」ルカ6章39−45節 要約 17.3.5(日) 港キリスト教会

 「人々を神のもとへ導くために」ルカ6章39−45節  17年3月5日(日)
主イエスは、律法学者やパリサイ人たちに「盲人が盲人の手引きができますか」と語られた。彼らが盲目の導き手だったという状況の中で、主がたとえで大切なことを教えられた。
 第1は、弟子たちが間違った導き手にならないために(39—42節)。
主が、彼らを盲人扱いにされたのは、人々をまことの救いに導けない霊的な盲目者であったからである。
 では、なぜ彼らは、人々を救いに導けないのか。それは、彼らは人々の非をたやすく見つけるが、自分自身を正しく見る心の目を持っていなかった。聖書を教えながら、聖書に学ばず、教えている者にも有益なものとしていなかった。
 それで、主は「まず自分の目から梁を取りのけなさい」と叱責された。良い導き手とは、聖書に教えられたことを、生活に生かし、そのあかしを見聞きした神様を知らない人たちが、神の愛や聖書の素晴らしさに気づいて頂くことではないだろうか。そのために、私たちは日々みことばを読み、学び、行うことを大切にしたい。

第2は、弟子たちが、人々を正しく導くためには霊的な成長が必要であった(43−44節)。
 ここでの良い木と悪い木のたとえの真意とは何か。それは、その人が人生の成功者か失敗者か、富があるかないか、あるいは社会的な身分や地位がどうかではなく、心の中の内面的な部分が健全で、良いものであるのかが、このたとえの真意ではないか。
 本来信仰とは、外面的なことよりむしろ、内面的な、しかも本質的なことを取り扱うものである。それは、目に見えないものに心を留め、この世の惑わし、誘惑、偽りから自分の魂(心:マインド 霊魂:スピリット)や身体(からだ)を守るためである。「私たちは、目に見えないものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(第二コリント4章18節)
 アダムとエバが園の中央にある木の実を見て、いかにも好ましかったので、彼らは、その実を食べた。その結果、彼らの心に罪が忍び込んだ。彼らが誘惑に屈した要因は、神様が木を置かれた本質的な意義に心を留めず、木の実の外見に心を奪われたことにあった。本質的なこととは、二人が神の命令に従うことにあった。それは、神は自由意志を持つ人間を望まれたからである。
 この様にアダムとエバを陥れたサタンは、今日も私たちに、聖書に疑いを持たせ、聖書をこの世のものと同レベル、あるいはそれ以下で無価値なもの(作り話)と思わせようと企んでいる。私たちは、聖書によって何が良いことで、悪いことかを見分ける能力や判断力を持てるのである。そして、聖書を学ぶことで、心の内面が矯正され、新たにされて霊的な成長をして、豊かな実を結ぶ者になる。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と議の訓練のために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(第2テモテ3章16、17節)
 霊的に成長することによって、人を神のもとに導けるのではないか。しかも、一人一人の信仰の成長は、教会に豊かな祝福をもたらしてくれる。

 最後は、弟子たちが、真に価値あるものとは何かを知るために(45節)。
宗教家たちの聖書知識は最高レベルを誇っていた。しかし、行いは最悪のレベルと主は嘆かれた。彼らの根本的な問題とは、自ら神様と向き合うことなく、しかも、神の御子イエスを拒み、自分たちは正しい、立派だと自負する高慢と偽善にあった。むしろ、神の前にへりくだり、悔いた心が良い倉であり、神の目には価値がある。それこそ、人々を神のもとへ導くために備えるべきものではないだろうか。