「主の御手の中で」ルカ9章10〜17節 2017年5月28日(日)

「主の御手の中で」ルカ9章10〜17節
 イエスによるパンと魚の奇跡には、弟子たちを訓練するという目的があった。
日が暮れ、食べるものがない状況の中、弟子たちは群衆(およそ一万人)のことを心配した。しかし、主は弟子のピリポをためして、「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」と言われた。そこで、ピリポは200デナリ(現在では160-200万円)のパンでも全く足りないと答えた。さらに、ペテロの兄弟アンデレは、「ここに少年が大麦のパン5つと小さい魚を2匹持っています。しかし、こんなに大勢の人々では、それが何になりましょう。」と答えた。
ピリポやアンデレの感覚は常識レベルである。しかし、主はそのような常識レベルを信仰のレベルに引き上げるために「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」と言われた。これが、主の奇跡を通しての第1の訓練である。
つまり、私たちは宇宙の原理や自然の法則に基づき、物事を考え、判断し、行動するのは当然である。しかし、この世の法則や原理原則が信仰の妨げになることもある。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(へブル11章6節)
 第2は、神目線で現状を見る訓練である。
アンデレは、少年が持っていたパン5つ、魚2匹を見つけて、「こんなに大勢の人々では、それが何になりましょう。」とイエスに進言した。もちろん、主に現状を訴える事は大切である。しかし、主の思いや主のみこころが何かを心に留めない現状分析は、つぶやき、嘆き、不満になりかねない。私たちも、困難で厳しい状況に置かれた時、主の思い、主の御心はどうなのかといったことから目をそらすと、つぶやき、嘆き、不平不満、疑いが生じるのではないか。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」(ピリピ2章13,14節)
第3は、人にはできなくても神にはできることを体験的に学ぶために。
エスは2匹の魚と5つのパンを御手の中に収め、父なる神に祝福の祈りをささげられ、1万人以上の人々のお腹を十分に満たされ、しかも、パンの余りが12籠あった。
エスは弟子たちに、少年が持っていた大麦のパン5つと魚2匹とを、わたしのところに持って来なさいと言われた。そこで弟子たちは、こんなものがいったい何になるのかと思いながらも、主のみもとに持って行った結果、彼らは貴重な体験をし、群衆たちのお腹も満たされた。「それを(人にはできないこと)、ここに持って来なさい。」との主のおことばは、混迷する時代に生かされている私たちへの招きでもある。