「揺るがない信仰(Ⅰ)」ルカ9章16−22節 6月4日(日)港

「揺るがない信仰(Ⅰ)」ルカ9章16−22節 
 
 イエスのパンと魚の奇跡を見た群衆たちは、イエスユダヤの王にしようとした。では、イエスの弟子たちは、イエスの奇跡を見てどう思ったのか。ペテロは「神のキリストです。」と告白した。 
 その直後にイエスは、「このことを誰にも話さないように。」と戒められた。
 以前に、イエスが、ゲラサ地方(異邦の地)にて悪霊につかれた男から悪霊を追い出された時は、「神がなされたわざを人々に言い広めなさい。」と言われ、また、会堂管理者の娘の生き返り(ユダヤ地方)では、「この出来事を誰にも言わないように」と命じられた。
 つまり、異邦人がいる所では言い広めるように。そしてユダヤ地方では、誰にも話さないようにと戒められた。
その背景には、人々が、イエスユダヤの王にして、ローマの属国からの解放して欲しいという気運が高まっていたからである。
 もう一つは、イエスへの妬み、憎しみが頂点に達していた当時のパリサイ人、律法学者、祭司長たちから命を狙われていたからである。
 このように、イエスを取り巻いている危機的な状況については、誰一人気づくことなく、イエスのことを正しく理解し、イエスの真意を知る者は誰一人いなかった。むしろ、人々は、イエスを自分たちの益のために利用しようとした。
 弟子たちも同様である。イエスを王とするユダヤの王国が樹立した時には、王位の次の位を、彼らの母だけでなく、弟子たち自身もイエスに求めて、お互いに言い争った。そのような情況の中でのイエスの十字架の苦難の予告であった。
 そのことを耳にした弟子たちにとっては、全くの絵空ことであった。しかも、イエスの十字架刑において、「神のキリスト」と告白したペテロは、イエスを知らないと力を込めて告白した。
 他の弟子たちも、イエスを見捨て、人々を恐れて隠れた。ところが、十字架の上でイエスは、父よ。彼らをお赦しくださいと祈られた。十字架の死からよみがえられたイエスは、イエスを見捨てた弟子たちを責められなかった。イエスの弟子たちへの愛は変わっていなかった。
 実は、私たちの信仰告白も、イエスの愛の確かさ、イエスの真実、イエスの憐れみ、イエスの優しさといったものによって支えられているのではないか。
 なぜなら私たちも、群衆や弟子たちと同じ弱さを持ち、同じように罪深い者であるからである。
 さて、イエスの再臨を待ち望む私たちは、イエスへの信仰に堅く立ちましょう。
やがてこの世の終わりに、イエスを信じるすべての者を救うために天から迎えに来られます。ですから、私たちは、お互いに励まし合い、祈り合い、助け合い、イエスの再臨の時には、共に引き上げられましょう。
「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス、キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3章20節)主イエスこそ、私の羊飼い、私の助け主、私の救い主です。アーメン!