「揺るがない信仰(2)」 −キリストに従う− ルカ9章23節 2017年6月18日(日)港キリスト教会

       「揺るがない信仰(2)」 −キリストに従う− ルカ9章23節  
 イエスはみなの者に、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と言われた。
 まず、「自分を捨てる」とは何か。それは、自己中心をやめて神中心に生きる、自己否定、神肯定の道であると注解している。他にも、「自分の都合や、利益を考えてはいけない」と訳している。
 
 私たちは、自分のことで悪く言われ、批判されると心が傷つき、心が騒ぎ、それを真正面に受けとめられず、いつまでもこだわり、忘れられないものである。そのような時、私たちの心の王座には自分が居座り続けている。そのために自己否定ができない。
 
 自分を捨てるとは、私たちの心の王座に居座る自我を神様と入れ替わることである。自我は、兄姉の交わりを壊し、主の働きを妨げる。何よりも聖霊様を悲しめる。さらに、御言葉に従うことができない。自我は心の平安を失わせ、主に従うことを困難にする。

 では、そのような自我は自分で何とかできるのか。いや、それはできない。自我はイエスの十字架のところに持っていくようにとみことばは勧めている。ガラテヤ5章24−26節L・B「キリスト様に属する者は、生まれながらの悪い欲望を、その十字架につけてしまったのです。

 もし私たちが今、御霊様の力を受けて生きているなら、生活全般に渡って、その導きに従おうではありませんか。そうすれば、名声や人気を得たいあまりに、ねたみ合ったり、いがみ合ったりする必要はなくなります。」

 次に、主はわたしについて来たいと思うなら「日々自分の十字架を負い、」と言われた。では、自分の十字架を負うとはどういうことなのか。

 もちろん、私たちが、全ての人の罪の身代わりとなられて、命を捨てられたイエスの十字架の苦難を負うことはできないし、また負わなくても良い。

 では、自分の十字架を負うとは何か。それはイエスを信じているゆえに受ける侮辱や屈辱、身近な者の反対や非難、義のための苦しみ、そして様々な労苦を負うことであり、また一人一人に課せられた負うべき重荷ではないだろうか。

 私たちは、そのような十字架を負うことから逃げることもできるし、また選び取ることもできる。確かに地上においては、前者の選択、つまり負うべき十字架を避ける方が得策かも知れない。しかし、後者の選択は、多くの労苦が伴うが、天における報いは大きいとみことばは約束している。