「揺るぎない信仰(3)」ーキリストのためにー ルカ9章24.25節 2017年6月25日(日)港キリスト教会

     「揺るぎない信仰(3)」ーキリストのためにー ルカ9章24.25節 
 イエスが弟子たちに、これから先キリストに従って生きることが困難となり、命を失うこともあると暗示された。そのメッセージは、現在のクリスチャンにも大切である。

 第1に「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い」との主のおことばは、迫害の中で、自分のいのちを守ろうとすることは、信仰を捨てることであり、それは、永遠のいのちを失うことである。
 クリスチャンは、自分のことだけを求めて生きるなら、多くを得るどころか、むしろ多くを失う。ソロモンは、王になった当初、信仰的に歩み、多くの祝福を得た。
 しかし、自分の富や快楽を求めた結果、後継者の骨肉による相続争い、祖国の分裂という大きな刈り取りを余儀なくされた。信仰の堅持と継承は大切である。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」 (第二テモテ4章7節)

 第2は、「わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」との主のおことばにおいて、「わたし」のためにとは、イエスを信じているゆえに、いのち(肉体)を失うことがあっても、天国はその人のものであるという主の約束である。
 「わたし」というお方を大切にしたために何かを失うこともある。しかし、失ったもの以上に、大切な多くのものを得、また与えられている。
 神と共に生きる幸い、信仰の家族、信仰の友、信徒たちとの幸いな交わり。失うことを恐れ、損なうことを懸念して、主のために生き、主のためにささげることを躊躇し過ぎないように。

 最後に、25節「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう」とのみことばについて見ましょう。
 マタイ福音書では、「まことのいのち(永遠のいのち)を損じたら、何の得になりましょう」と言われた。ここでは、「たとい」ということばに注目したい。イエスはこの世の栄誉より、ご自身のいのちを、私たちの罪の身代わりのために十字架でささげられた。その結果、罪の赦しと永遠のいのちを得た(救われた)。
 たとい欲しいものすべてを得たとしても、まことの神を見失い、永遠のいのちを失ってはいけない。この世において、私たちの心を惹くものがたくさんある。でも、イエスが私たちのために何をしてくださったかを、いつも心に留めつつ歩みたい。

* ドイツのデュッセルドルフの絵画舘で、ひとりの青年がある絵の前にじっと立ちどまっていた。

 一時間、二時間たっても、彼はそこから動かなかった。その両眼からは涙があふれていた。

 彼が見ていた絵は、いばらの冠をかぶせられたキリストを描いたもので、この絵の下にラテン語で「わたしはあなたのために、このことをした。

 あなたはわたしのために何をしたか。」と書かれていた。絵を見ているうちに、そのことばが心に迫り、彼は、守衛が閉館の時間を告げるまで、時のたつのを忘れるほどであった。

 この青年は、ザクセンの貴族、ニコラス・ツィンツェンドルフ伯爵だった。彼は、その時、予定していたパリ行きを中止し、華やかな社交界やぜいたくな生活に別れを告げ、残る生涯をキリストにささげた。ツィンツェンドルフ伯爵は、その後、1727年に*モラビア兄弟団を再建し、1737年にその監督となった。

「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ人への手紙14章8節)私たちも、キリストのことばにこたえ、キリストのために生きる者となりたいものである。

モラビア兄弟団によってジョン・ウエスレーが導かれ、ジョン・ウエスレーの流れから、メソジスト、ホーリネス、

 兄弟団、日本イエス、インマヌエル、ナザレン教団等が生まれたと聞いている。