2017年7月2日(日) 「キリストの変貌」-祈っていると- ルカ9章28−36節   

   「キリストの変貌」-祈っていると- ルカ9章28−36節        
 「イエスは、ペテロとヨハネヤコブだけを連れて、祈るために高い山に行かれた。そして、祈っておられると御顔は太陽のように輝き、衣は白く光り輝いた。」この箇所から、祈りについて学びましょう。
 まず、第1に教えられることは祈りによる変化。聖書の中に、祈った後に何かが起こる。あるいは何かが変わったという記事が数多くある。ペテロが牢に投獄された時、人々は教会で熱心に祈っていた時に、御使いによって脱出不可能な牢の中からペテロは救出された。ペテロを見て驚いた女中は、皆に知らせたが、皆は女中の言葉を信じなかった(使徒12章)。しかし、人々の熱心な祈りは状況を全く変えた。
 第2に教えられることは、祈りと神の御心です。イエスは、エルサレムでの十字架の死の最期について、エリヤとモーセと話しておられた。少し前にイエスが、ご自分の十字架の死の予告をされた。ところが、ペテロはそんなことがあなたに起こるがずがないと、主をいさめた(間違いを正すように)。ペテロは、自分の感情や思いで主のことばを打ち消した。いや打ち消したかったのかも知れない。しかし主は、山中での深い祈りのうちに、モーセとエリヤとともに、父なる神様の御心について語り合っておられた。主は、すでに祈りの中で十字架の死を受け入れておられた。主とペテロとの違いは何か。それは、御心を感情や思いによって知ろうとするのか、あるいは祈りによって御心を求めるかの違いである。確かに、神の御心を知ることは容易ではない。しかし、御心を知るためには祈り続け、そして、主の時を待ち望むことが最善の策である。
 次に、祈りの必要です。ペテロとヨハネヤコブは、主と共に山に登った。しかし、眠気のために主とともに祈れず、目がさめるとイエスの栄光とモーセとエリヤを見た。クリスチャンは、祈りを通して神様から多くの祝福を受けることは十分承知している。でも、忙しさのためになかなか祈りの時間が取れない、祈ろうとするが眠くなる。なかなか祈りが優先できない。継続的に祈れないという現実はないでしょうか。イエスは、天の栄光を受けるにふさわしいお方であったが、私たちの罪による滅びから救うという使命のために、十字架の死を受け入れてくださった。しかし、そのために主は、何よりも祈りを必要とされ、そして祈りを大切にされた。
 さて、祈りは変化をもたらし、祈りを通して神の御心を知り、そして、祈りは必要である。それは、どれだけ祈っているのかに重点が置かれているのではなく、祈るべき時に祈ることに重点が置かれているのではないか。神は、そのような祈りに必ず答えてくださると信じたい。「確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。ほむべきな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。」 (詩篇66篇19節)