「隣人愛について」 ルカ10章25-37節 2017年7月23日(日)港

「隣人愛について」 ルカ10章25-37節
  このたとえには、通行人の祭司、レビ人、サマリヤ人が登場する。強盗に襲われ瀕死の状態のユダヤ人の隣人となったのはサマリヤ人であった。当時ユダヤ人はサマリヤ人を蔑視していた。原因は500年前から700年前まで遡る。それは、当時のサマリヤ地方のユダヤ人たちが、異国の民と結婚してサマリヤ人となったことによる。次に、登場する律法の専門家とは、聖書の深い専門知識を持ち、特に律法(おきて)を遵守しなければ、神の国に入れないとし、またそれを信じている人々であった。しかも彼らは、先祖からの言い伝えと、聖書が教える律法とを混同し、神の律法よりも伝統的な教えを重要視したために、主は彼らを非難された。その結果、彼らは主に対して殺意を抱くようになる。ここでは、主に悪意を抱き、主を陥れようとしていたひとりの律法の専門家に対して主はどのように対応されたかを見ましょう。
 第1に、主は彼の悪意を暴露されることなく真摯に対応された。(26−28節)
主は、聖書の大切な戒めについて質問されたが、彼は模範的な解答をした。永遠のいのちに至るための知識を持っていた彼に対して主は、「そのとおりです。それを実行しなさい。」と促された。彼は聖書をよく学び、人に教える能力や知識は十分にあった。ところが、実行する力がなかった。それは、彼らがサマリヤ人を極端に差別視していたことから推し量れる。聖書は、「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」と勧めている(エペソ4:31)。ここで主は、聖書は聞くだけでなく、実行する様にと律法の専門家に勧められた。それは、主の真摯な対応であった。
第2に、主は彼の間違った自己認識に気付くように対応された。(29節)
人は、自分についての非(間違い)には気付きにくい。しかも、人から非を指摘されると、なお受け入れにくい。この律法学者も、自分の正しさ(義)を示そうとして、「では、私の隣人とは、だれのことですか」と主に切り返した。彼が、「隣人とはだれのことですか」と質問したのは、彼は隣人を愛することがなかったからではないだろうか。ところが、彼の口から出た聖書の言葉は、彼の心を探った。私たちも、心から神様を愛すること。また隣人を、自分を愛するように愛するというのは、まさに心探られることではないか。
彼は、自分の正しさを示そうとしたために、「隣人とはだれなのか。」という問いに、自ら心を向ける結果となった。それは、主の計らいではなかっただろうか。主は、「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。」と教えられた(ルカ16:15)。私たちも自分が絶対に正しいと思った時は要注意である。そのような時は、みことばに心を留めて、正しく自己評価したいものである。
第3は、主は彼に隣人について教えられただけでなく、彼を隣人として愛された。
主は、終始彼の悪意を暴かれず、彼自身から自己の非に気付くように仕向けられ、「あなたも行って同じようにしなさい。」と勧められた。それは主の慈しみと優しさによる。そのような主が、律法学者、パリサイ人、祭司長たちに十字架の死にまで追いやられた。それにも関わらず、彼らをののしり返されなかった。私たちは、このようなすばらしい主の愛と赦しを信仰によって頂いている。そして、この律法の専門家に伝えられたメッセージは、主の愛を満タンに頂いている私たちへのメッセージでありチャレンジでもある。「あなたも行って同じようにしなさい!」