2017・8・20(日)第3礼拝  港

    『主の祈り(Ⅰ)』  ―祈りの基本とは― マタイ5章9,10節 
何事も基本は大切であり、それは祈りにおいても同様である。イエスは、弟子たちにこのように祈りなさいと教えられた。まず、神様に関する告白の祈りである。次に、自分の願い事を祈るという順序が大切。祈りが聞かれるかどうかは、祈る人にではなく祈っているお方にある。
まず第1の祈りの基本とは、『御名があがめられる』という告白の祈りである。「御名」とは神様ご自身を指し、「あがめる」とは、聖別する、崇拝するという意味がある。つまり神様ご自身がほめたたえられるようにという告白の祈りである。私たちは祈る時には、神への畏敬の念と神を敬う姿勢がまず求められている。
第2の祈りの基本とは、『御国が来ますように』という告白の祈りである。「御国が来ますように」とは、神様のご支配がこの世界に及びますようにという告白と願いである。では、「御国が来ますように」とは何か。それは神様の義がこの世界を支配することであり、不正に満ちた世界において、正しいことは正しいとされ、真の平和が私たちの世界に来て、悪がこの地上から滅び去ることである。しかし、現状は矛盾や不条理なことで満ち、神の義と平和が来る気配は一向になく、今尚世界のどこかで戦争や紛争が絶えない。では、「御国が来ますように」という祈りは空しいのか。そうではない。主イエスがこの世界来られたことがすでに御国の到来である。『悔い改めなさい。天の御国は近づいたから』(マタイ3章2節) この「悔い改め」とは、心の向きを変えてまことの神様を信じることである。次に「天の御国が近づいたから」とは、英訳では、神の国はもうすでにあなたの手の中にあると訳されている。つまり、「御国が来ますように」という祈りは、キリストが地上を完全支配されるという願いだけでなく、一人でも多くの人がまことの神様を信じて救われるようにとのとりなしでもある。とはいえ、「御国が来ますように」と言っても、世界はサタンの支配下にあり、人は罪の力によって翻弄されている。しかし神の御子を信じた者は、サタンの支配から神の御霊の支配へと移された。つまり罪の奴隷から解放されてキリストに仕える者とされた。さらに「御国が来ますように」との告白には、キリストの再臨の願いも含んでいる。というのもキリストの地上再臨こそ、キリストの地上支配の完成の時である。この地上においては、不公平なことや不条理なことがあり、どうして自分だけがという不平不満、また悲しいことや辛いことも多々ある。しかし、キリストの再臨の時は、神を信じている全ての者が報われる時であり、神様からの祝福を受ける時である。ですから、「御国が来ますように」との祈りは、今は色々な厳しい状況の中にあっても、主の再臨という希望の日を忍耐して待ち望む祈りである。
最後に3つ目の祈りの基本とは、『みこころが天で行われるように地でも行われますように。』という告白の祈りである。イエスは十字架にかかられる前に、ゲッセマネにおいて十字架刑を前にして、「わたしの願いではなく主のみこころがなるように」と祈られた。主イエスは、父なる神を全く信頼され、服従されて、罪人のために命を捨てられた。そのことによって、私たちは神の愛と神のみこころを知った。その神のみこころが地でも行われるとは、御国の到来(キリストの再臨)であり、その時こそ、神のみこころの完成(成就)の時である。
願わくは、私たちの霊の目が開かれて、このみことば全体から神様の大いなるご計画とみこころをもっともっと知ることができますように。そして、私たちの祈り願いだけでなく、まず主のみこころの通りになりますようにと祈れる者になりたい。

『主の祈り(Ⅱ)』―私たちの3つの必要のための祈り― マタイ6章11−13節 17/8/20 港
主イエスは「主の祈り」の後半で、私たちの3つの必要①生活(肉体)②精神(魂)③霊の必要のために祈りなさいと教えられた。
まず第1は、生活の必要のための祈りです(11節)。
私たちの国において、明日何を食べようかと心配する必要がないというのは恵みである。それゆえに、神様を信じている私たちクリスチャンさえも、糧を得るための祈りの必要性をあまり感じない。たとえ、豊かで恵まれた環境であったとしても、主が日ごとの糧の必要のために祈りなさいと教えられたのはなぜか。それは、私たちは神様によって生かされて(依存)おり、また神様に信頼して生きる者であることを忘れないためである。ロイド・ジョーンズは『私たちは、神の法則について、いくらかの知識を得たからと言って、それで神から独立していると考えてはいけない。』と言っている。
第2は、精神(魂)の必要についての祈りです(12節)。
それは、罪が赦されることと罪を赦すことである。罪は私たちの精神に大きな影響をもたらす。『私の罪のため、私の骨には健全なところがありません。』(詩篇38篇3節) 『私の罪で不安になっています。』(詩篇38篇18節)とダビデは告白している。罪は私たちの心と体を虫食み、心を掻き乱し、精神を病ませ、やがて魂の永遠の死をもたらす恐ろしいものである。ですから主は、罪が赦されることと罪を赦すことのために祈ることを教えられた。罪は日ごとに赦される必要がある。赦されていない罪は、神様との交わりにおいて大きな妨げとなる。私たちは、神様への賛美と感謝とともに、告白の祈りだけでなく、人の罪をも赦すことを求められている。それは私たちの魂が祝福され、心が平安で、精神が健全であるためにどうしても必要なことである。
第3は霊の必要のための祈りです(13節)。
霊(霊的)のために必要な祈りとは何か。それは、この世における誘惑(試練)や悪から身を守って下さいという祈り願いである。私たちが、神様によって霊的に祝福されることを妨げるのは、サタン、その支配下にあって、それに追従する悪霊たちの働きや、悪のわざである。サタンや悪霊たちは、私たちクリスチャンが神様のことや、霊的な話題を持ち込むことを嫌い、霊的なことから目を離させようとします。ですから、主は試練と誘惑(試練と誘惑の原語は同義語)において祈るようにと勧められた。もし、私たちが試練や誘惑に屈するなら、霊的な領域から離れてしまう。ですから、私たちが霊的な領域に留まり続けるためにも祈りが必要である。『誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱いのです。』 (マタイ26章41節)
最後に『国と力と栄えとは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。』という結びの祈りにおいて神様への礼拝で終えるのは、主イエスの教えにかなっている。それは、私たちの祈りに答えて下さる神様は、栄光に満ち満ちたお方であり、ほめたたえられ賛美されるにふさわしいお方だからです。