「神を知るしるしとは」ルカ11章29-36節  2017年9月17日(日) 港キリスト教会

 「神を知るしるしとは」ルカ11章29-36節      
  イエスがなされた奇跡を見た多くのユダヤ人たちは、それらの体験を信仰の土台とした。そのために、神の御子であるイエスを受け入れなかった(30節)。
 彼らは、奇跡をなされたイエスよりも、むしろ、しるしに関心を示した。イエスを拒み、悔い改めないかたくなな心(32節)に対して、イエスは警告をされた。
 
 ヨナは、神のしるしを体験したが、神からの警告を語り、それを聞いた異教のニネベの人々は、悔い改めた。その結果、国は滅びなかった。しかし主イエスが、ヨナよりまさり、神の御子であることの証明のために奇跡をなされたにも関わらず、人々はイエスよりもしるしを求めた(16節)。
 
 当時のエリート集団であった宗教家たちも、ナザレの田舎者、大工の倅(せがれ)であるイエスのうちに神を見出せなかった。ある注解者は、「純粋な心を持って神を求めることをせず、神よりも神の賜物である奇跡が関心事だと言うのは、神を自己の利益(都合)のための手段としているからである。」と論じた。
 
 では次に、奇跡をなされたイエスのうちに神を見出せなかった理由と、神を知るしるしとは何かを見ましょう。その理由とは、イエスを見て、神の存在を見出せなかったのは、人間の心の闇のゆえである。つまり、彼らの心の目(霊の目)が不健全であるからとイエスは指摘された(34節)。それは生れながらのものでもある。
 
 では、どうすれば神を見出せるのか。

 第1はキリストを知ること 「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」(ヨハネ1:9)「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(3:17、18節)と、ヨハネは、キリストこそまことの光であり、救いの光であると証しした。その光は十字架の上で照らされた。十字架に付けられたキリストは、私たちの罪の身代わりとなられ、この贖いによって罪が赦された。さらに、キリストはさばきの光として来られた。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。」(ヨハネ3:18、19) イエス・キリストを求めるなら、キリストのうちに神を見出す。
 
 第2は、聖霊(御霊)の光によって イエスを信じる者の内におられる聖霊様は助け主であり、慰め主である。気落ちした者、失望落胆した者を助け、励まし、慰めてくださる。また、聖霊の光によって私たちの罪を明らかにされる。さばくためではなく、罪を告白し、赦されて心に平安を取り戻すためである。また私たちは、愛せない、赦せない、憎しみ、妬み、また人をさばくといった心の闇は、聖霊の光で照らされて、それらの闇を打ち砕かれる。また思い煩い、不安、恐れ、悩み、苦しみといった心の闇は、太陽によって深い霧が晴れる様に、聖霊の光によってその闇を晴らし、勇気と希望とを与え、平安な心に変えてくださる。
 
 第3は、聖書の光によって 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」詩篇119篇105節 私の足とは何でしょうか。それは日々の歩みである。また道とは人生である。日々の歩みにおいて罪の誘惑から守られるためにどうすればいいのか。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。」(詩篇119篇9節)と教える。私たちは、生ける神のみことばによって、この世の悪から守られて、幸いな人生へと導かれましょう。さて、復活のイエスを見た弟子たちの目撃証言を信じなかった弟子のトマスは、復活のイエスを見て信じた。イエスはトマスに言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか、見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20章29節)「見ずに信じる者は幸いです。」とは、イエスが人々に語られたみことばに心を開き、素直に信じる者である。「信仰は聞くことに始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」 (ローマ書10章17節)