「迷える羊」—見つかるまで捜す神の愛— 要約 ルカ15章1−10節 2017/12/3(日)港

  「迷える羊」—見つかるまで捜す神の愛— ルカ15章1−10節  

 百匹の羊のたとえ話には、神の私たちに対する思いが描かれている。
第1に神は無条件の愛で私たちを愛され、その愛は孤独からの解放をもたらす。今日、孤独な人がますます増えているのではないか。友達と話をし、遊んでいる時は楽しい、でも一人になると淋しく、孤独でたまらない。それを紛らわせようと友達にメールやラインを多用する。家族、愛する友、愛する人がいても、人はなぜ孤独感を持つのか。
 それは「条件付の愛」の中で生きているからではないか。利己愛や自己愛は「条件付きの愛」そのものであり、そのようなものを基準にした人間関係は、もろく、壊れやすく、常に誰かが傷つく。
 さて群から離れた羊が、群れの中にいれば安全であった。もし、羊飼いに聞き従っていたらという条件付けられると、迷える羊はますます孤独な存在となる。
 しかし無条件の愛とは、見つかるまで捜す愛である。見つけるまで捜す理由とは、不必要で無用な羊は一匹もいないからである。孤独というのは、自分は必要とされていないという疎外感の結果である。無条件の愛は孤独からの解放である。無条件に愛されている実感こそが、孤独や孤立からの解放をもたらす。

 第2に、神は永遠に変わらない愛によって私たちを愛しておられ、その愛は生きる力となる。迷える羊のように、人間には欠けがあり、弱さや不完全さがある。しかし、欠けてはいけない大切なものがある。それは、愛されることと愛することである。 
 今日、ますます進む自動化や無人化システムは、人間関係をより希薄にし、人間同士の信頼関係よりも、機械やシステムに信頼度が高くなるのでは。しかし、その様な環境は、目に見えない神を信じて生きることは、非科学的だと一笑される危惧がある。そうなれば、神の愛を見つけることがますます困難になる。
「いつまでの残るものは、信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(第一コリント13章13節)いつまでの変わることのない神の愛こそ、一寸先は闇というまさかの多い人生をしっかりと生き抜く力となる。
 
 最後は、犠牲的な愛こそ罪人を神様の救いに導く。悔い改める必要のない正しい99匹の羊を野原に残し、悔い改める必要のある出来の悪い羊を見つけるまで捜す犠牲的な愛。これはまさにキリストの十字架の愛である。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)
神の無条件の愛を知り、体験することによって、罪人を悔い改めさせ、神との平和(和解)へと導くものである。

 まさにクリスマスは、人を永遠の滅びから永遠の天国へと導くための、神からの良き知らせのスペシャル・デー(特別な日)であり、アメイジング・デー(驚くべき日)である。