「天の喜び」-ひとりの回心者- ルカ15章8- 10節 2017年 12月17日(日)

  「天の喜び」 -ひとりの回心者- ルカ15章8-10節

 ある女が10枚の銀貨のうち1枚をなくし、家中丹念に探して見つけた。それで多くの人を呼び一緒に喜んでくださいとお願いしたというたとえ話の中に、二つの異なる喜びがある。一つは大切にしていた銀貨を見つけた量的な喜びと、もう一つは天の喜びという質的な喜びである。

 まず❶量的な喜びとは、銀貨をなくした女は、当時女性蔑視のユダヤにて、10銀貨の首飾りを手に入れるために、汗水流し、苦労して手に入れたに違いない。もし、結婚の準備としての10銀貨の首飾りであるなら、一枚の銀貨を見つけた時の喜びは大きい。ただし、この量的な喜びはいつまでも続かない。「富はいつまでも続くものではなく、王冠も代々に続かないからだ。」(箴言27章24節)と語った当時の世界で最も富んでいたと言われていたソロモン王の言葉だけに説得力がある。つまり量的な喜びは、いつしか消えゆくものであり、はかないものであり、人が探し求めている真の満足や真の幸福を得るものではない。
 
 次に❷質的な喜びとはどのようなものか。お金は、売買するためのものという存在目的を持つ。しかし、それが持ち主の手から離れると、その存在目的も存在価値も失う。  
なくした銀貨の存在目的や存在価値を取り戻すには、銀貨が持ち主の手に戻ることである。つまりこの喜びとは、自分の存在目的が分からないままに生きている人が、存在目的を見出し、自分は価値あるすばらしい存在であることを見出した人を喜ぶというものである。それが質的な喜びである。実はなくした銀貨とは、神から離れている人間のことである。多くの人が、自分は何のために存在し、何のために生きているのかという人生の真の目的が分からないまま生きているのではないだろうか。
 
 人類最初の人であったアダムとエバが神に背き、神から離れた結果、罪が入り、その罪の力によって、本来価値ある人間なのに、価値ある生き方が出来なくなった。このように、私たちの存在目的や存在価値を見失わせる根源である罪から解放するために、父なる神が用意されたのがイエス・キリストの十字架による罪の赦しである。

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ書6章6節) 

 罪を悔い改めてイエス・キリストを信じたときに、人生の真の意義と真の目的を知り、死後天国行きの切符を手にする。このたとえ話の中に見出される、失われた魂を見つけるまで捜し求められる神の愛と神の熱心は、今からおよそ2000年前、ベツレヘムの家畜小屋に誕生された御子イエスによって具現化された。
「キリスト・イエスは、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19章10節)