「放蕩息子が気付いた父の愛とは(1)」 ルカ15章11−24節 2018年1月21日(日)港キリスト教会

「放蕩息子が気付いた父の愛とは」 ルカ15章11−24節  

 イエスのたとえ話に登場する弟が、父から財産分与を願い出た。その数日後、手にした財産を持って家を出た。ところが放蕩三昧の末、全てを失い、飢え死にするほどの貧乏に陥る。しかし、その辛い経験を通して、父の深い愛に触れた。では、放蕩の結果、息子が体験した父の深い愛とは。 

 第1に不変の愛である。父親は、息子に財産を分け与えたために、身を滅ぼす末路を辿らないかと心配したことでしょう。しかし、父親は息子の自由意志に委ねた。アダムとエバにも自由意志が与えられていたが、悪魔に惑わされ、神の命令に背いた。しかし、人がその罪のさばきから逃れるために、父なる神は御子イエスの十字架の血(いのち)による贖い(犠牲)に託された。
 この行為は、何があっても、神の愛は決して変わることがないという証明であり、その愛は父親にも見ることができる。父親は、息子のことを一日も忘れることなく、誰よりも心配していたことだろう。
 ところがある日、ぼろを身にまとい、しかも裸足という惨めな姿で帰って来た息子を、遠くから見つけるや否や走り寄り、口づけした。この行為は、息子に対する愛は全く変わっていなかったという証明である。
 私たちは、祈りに答えられない。神様を信じているのになぜと失望し、他の人と比べて落胆して神の愛を疑い、いつしか信仰そのものに疑問を抱くようになることも。でも大丈夫です!「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみを持つ。怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛を持って、あなたをあわれむ。」(イザヤ書54章7、8節)という神の約束がある。 

 第2は、まことの愛にはまことの赦しがある。この父親の赦しには2つの赦しがあった。
 1つは、過去を問わない赦しである。人を責め、欠点や失敗を指摘するだけでは人は悔い改めない。しかし、父親の不変の愛(かつ無条件の愛)が息子を悔い改めさせ、その悔い改めによって、父親は息子を赦した。
 それはいかなる過去も一切問わない全き赦しであった。「このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(イザヤ書43章25節)

 2つ目の赦しとは、赦したということを(言葉だけでなく)行為で伝えた。息子が、父親から一番良い着物を着せてもらって、これまでのつらい経験を忘れさせたと同時に、父に赦されたと実感したはず。
 次に、私は息子と呼ばれる資格はない、やとい人でもいいと思っていたのが、父から受けた指輪によって、家の相続の一人であると実感したはず。次に裸足であった足に靴を履かせてもらい、靴さえも買えない極貧から、豊かで自由な生活の保障を得たと実感したのでは。このように父に心から赦されたということを、父の息子に対する具体的な行為によって伝わった。
 
 さらに祝宴によって父と父の家の者達との和解を得た。まさに完璧な赦しである。人との和解、人との交わりの回復には、神の愛による悔い改めと赦しが必要である。
 その神の愛は、御子イエスの十字架の苦難に見る。この放蕩息子のたとえから導かれたみことばが、「互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。」(コロサイ3章13、14節)