「憐れみ深い神」-信仰的な視点でイエスを見る- ルカ18章35−43節 要約 2018年3月18日(日)港キリスト教会

       「憐れみ深い神」-信仰的な視点でイエスを見る- ルカ18章35−43節
 過ぎ越しの祭りの頃、たくさんの人々がエルサレムに集まる。物乞いにとっては、恵んでもらえる絶好のチャンス。

その様な時、いつになく騒がしい事態に気付いたひとりの盲人が、大声で「主よ。私を憐れんでください。」と叫び続けた結果、イエスによって目が見えるようになるという奇跡を体験した。

今回は、人生が大きく変えられた盲人と、イエスに付き従ってはいるが、人生に何の変革も起こらなかった人々との違いとは何かを見ましょう。

それは、盲人が大声で、「主よ。私を憐れんでください」と叫んだことにある。つまり、イエスを見る視点に違いがあった。人々が、叫び続ける盲人をたしなめたのは、彼の行為がイエスの邪魔になると考えたのだろうか。
しかし、イエス神の国の教えを説き、不思議な奇跡をなされる神の御子ですから、彼ら自身もこの盲人と同じように、イエスに救いを求めるべきであった。その人には問題があると視点を向けるが、実は自分に問題があることに気づいていないのである。

エスは、弱い人々や貧しい人々に共感し、優しい心を持つようにと隣人愛を説かれた。しかし、イエスについて来た人々の関心は、イエスユダヤの王にし、ローマの支配からの解放して欲しいという期待感に満ちていた。つまり、彼らの視点とは、現世的なことのみに目を向け、霊的なことには無関心で、盲目であった。それが、当時の人々のイエスへの視点であった。

そのような視点では、大声で叫ぶ盲人に共感できない。それどころか、人々は盲人の叫びを制止しようとした。しかし、イエスは立ち止まり、人々をたしなまれ、そして盲人は、「主よ。目が見えるようにしてください。」と懇願すると、イエスは盲人の目を開けられ、「あなたの信仰が、あなたを救いました。」と言われた。

この盲人は、惨めな自分に卑下し、孤独と絶望という闇の中にいたのではないだろうか。しかし、盲人は、イエスの前にありのままの自分をさらけ出した結果、イエスは心を動かされた。「主よ。私を憐れんでください!」という叫びは、イエスへの確かな信仰の証しであり、切実な祈りであった。それこそが、盲人のイエスに対する視点であった。

私たちも盲人のように、「主よ。私を憐れんでください」と神の御前に出るなら、私たちを憐れみ、助けてくださり、失望や絶望を希望に変えてくださる。大切なのは、どのような視点でイエスを見ているかである。当時の群衆や弟子たちのように、現世的な期待や夢、また人間的な願いや希望という視点ではなく、イエスに目を開いてもらった盲人の様に、主は憐れみ深いお方であるという視点でイエスに祈り願いましょう!