「天国に入るために」−行いではなく信仰によって− ルカ18章18−23節 要約 2018年3月11日(日)

 「天国に入るために」−行いではなく信仰によって− ルカ18章18−23節
 
ひとりの指導者がイエスの所に来て「良い(尊い)先生。何をしたら永遠のいのちを受けられますか」との質問に対するイエスの答えにある3つの疑問について。

まず第1の疑問とは、主は「なぜ、良いことについてわたしに尋ねるのですか。」と言われたのか。それは、良い人になることが永遠のいのちの保証ではないことを気づかせるためでは。では、なぜ良い人や良いことをすることが永遠のいのちの保証とならないのか。それは、それらが永遠のいのちを受けるための条件を満たしていないからである。では、私たちが永遠のいのちを受けるための条件とは「わたし(イエス)のことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのち持つ」(ヨハネ5章12節)と教えている。

第2の疑問とは、なぜ主はこの青年に「いのちに入りたいなら、戒めを守りなさい。」と言われたのか。戒めとは「姦淫してはならない、殺してはならない、盗んではならない、偽証を立ててはならない。父と母を敬え。」である。しかし、彼は「そのようなことはみな、小さい時から守っております。何がまだ欠けているでしょうか」と答えた(マタイ19章)。この青年は、神の律法を道徳基準と考えていたのであろう。しかし、聖書は「人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められる…。」(ガラテヤ2章16節)と教える。良い行い(道徳的な)によって良い人になるという考えは間違いではなく、良い行いによって神から功徳(祝福)を受けると考える人も少なくない。この青年も同じであった。そこでイエスは、それらの考え方を覆す言葉を青年に投げかけられた。

第3の疑問とは、主は、なぜ「まだひとつだけ欠けたものがあります…。」(22節)と言われたのか。主は、律法を守っていると自負した青年を試された。彼は永遠のいのちの確証を、良い人になること、あるいは良い行ないに求めた結果、財産のすべて売り払って、貧しい人に分け与えなさいという主の命令に、彼は顔を曇らせ(不機嫌になり)、悲しんで主の前から立ち去った。実は、主はマタイ19章で、最高の律法である「あなたの隣人を、自分自身のように愛しなさい」と命じられた。しかし、彼は一番大切な律法を守れなかった。聖書は「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ書3章20節)と教える。もし、この富める青年が、律法によって自分の不完全さを知り、罪意識が生じていたら、永遠のいのちを得たかも知れない。ところが「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」という彼の自負心と自己義認は、律法により生じる罪意識を封印し、神を信じて義とされ(罪赦され)、永遠のいのちに至る道を閉ざした結果、イエスから立ち去った。

神の御国に行くために、人間の価値、功績、努力、修練、正しさ....は一切不要であることを神の御子イエスの十字架の死が証明している。「もし(神による)義が律法(行い)によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラテヤ2章21節)