「平和の町エルサレム」 −主の再臨を待ち望む教会− ルカ19章41節―46節  2018.4.22 港キリスト教会

  「平和の町エルサレム」 −主の再臨を待ち望む教会− ルカ19章41節―46節 

  主イエスエルサレムに来られた時、過ぎ越しの祭りで、遠方からも多くの人々が、罪の贖いのための生け贄を宮にささげに来た。しかし、主はエルサレムをご覧になり涙を流され、宮では憤りを覚えられた。

 さて、ここから主の涙と主の憤りから、二つの教訓について学びましょう。

 第1は、主が流された涙の意味について。それは、近い将来エルサレムが完全に破壊されることを、主は知っておられたからである。しかし、ユダヤ人にとって、雄大、かつ神が住まわれる都が、破壊されることは絶対にありえないことだった。
 しかし、主の預言通りAD70年、ローマ軍によってエルサレムは破壊された。主が事前に民の悲惨を予告されたが、多くのユダヤ人は災難に遭った。その原因として、民は霊的な盲目状態にあり、メシア(救い主)が来られたことに気づいていなかったからではないか。
 しかし、イエスの警告を信じていたクリスチャンたちは、エルサレム滅亡の前に、ヨルダン川を渡り、ぺレアに難を逃れた。これらの出来事は、終末時代に生きる私たちにとって、極めてよく似た出来事ではないか。
 今日世界は物質主義、民族主義自国主義を標榜し、ますます世界は混迷し、平和の秩序は崩れつつある。主がエルサレムの都をご覧になられて涙された様に、今日の時代を憂いておられるのではないか。
 エルサレムの破壊は、まさに今日の罪に満ちた世界が、やがて主によって裁かれるという予表(予型)でもある。
しかし、難から逃れたクリスチャンたちは、激しい迫害の中で福音を宣べ伝えた。まさに終わりの時代における教会の宣教は急務である。

 第2は、イエスの憤りについて。イエスは宮に入り、商売をしている者たちを追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。遠方から宮に来る者にとって、生贄の動物や、他の品物が売られていることは便利であった。
 しかし、そのことをうまく利用してお金儲けを企む商売人に対して主は憤られた。宮の利益のためにと言いつつ、自分たちの私腹を肥やしていた。主は、「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」と言われた。
 神殿は、神との会見の場所、賛美と喜びをもって神を礼拝する場である。
今日の教会も世の利益を求める場ではなく、神があがめられ、賛美され、ほめたたえられる所である。そこに何人のクリスチャンが集まっているかが第一義的なことではなく、そこにどれだけのクリスチャンが、祈り心を持ち、へりくだって主に心からの礼拝をささげているかが重要ではないか。
 
 主が涙された都、憤られた宮のように現世的で世俗的な教会にならないように、警戒しなければならない。何よりもまず救霊のために祈り励みましょう。今私たちは、主が間もなく来られる時代に生かされているように思えてならない。「あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない(not expect:期待しない)時に来るのです。」(ルカ12章40節)