「神に退けられた義人」-行いではなくただ神の恵みによる-ルカ18章9−14節 要約 2018年2月25日(日)港キリスト教会

「神に退けられた義人」-行いではなくただ神の恵みによる-ルカ18章9−14節
 今回は、宗教的模範者パリサイ人が神に退けられ、自ら罪深い者と告白した取税人が義とされたというイエスのたとえから3つの真理について学びます。

 
 真理その1:人を正しく評価できるのは神様のみ。当時のユダヤの民衆にとって、パリサイ人も取税人も共に嫌な存在であった。それは彼らの職業に対する嫌悪感と彼らの人間性にあった。ところが、イエスがパリサイ人を退け、取税人を義とされたのは、彼らの職業や人間性ではなく、彼らの神に対する姿勢にあった。パリサイ人は自らを義とし、取税人は自らを蔑んだ。神は自分を義とする者を退け、自分を罪人と告白する者を受け入れられた。つまりイエスの評価は、彼らの職種や人間性の云々ではなく、正しい自己認識の有無にあった。

 
 真理その2:神が受け入れられたのは、パリサイ人の自他の評価ではなく、取税人の真実な告白であった。パリサイ人の祈りは「私は……でないことを感謝します。」という高い自己評価の祈りであった。しかし、そのような祈りは神から遠い者とされた。注解者は彼の祈りの姿勢を「彼は神をチラッと見るが、自分をじっと見つめる」と表現している。ところが、取税人は宮から遠く離れて祈っていた。祈りの内容は「神様。こんな罪人の私をあわれんでください。」という告白の祈りであった。神様は、ありのままの祈りと真実な告白に耳を傾けられる。
 
 真理その3:人が義とされるのは、行いではなく、ただ神の恵みによる。このパリサイ人は自己実現による義を求めたために、自らを高くするしかなかった。それゆえに、神は彼を退けられた。しかし、罪人であるという自覚と正しい自己認識によって、神の前に低くされた取税人は、神に救いを求めざるを得なかった。それゆえに、神は彼を義とされた。主イエスの兄弟ヤコブも「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4章6節)と教えている。