「天国の鍵を持つ幼子」ルカ18章15-17節 要約 2018年3月4日(日)港キリスト教会

「天国の鍵を持つ幼子」ルカ18章15-17節
 
 人々がイエスに触れるために、幼子たちをイエスのみもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らを叱った。
 この出来事でのイエスの教訓とは。

 第1のイエスの教訓:子供たちへの思い。

 当時のユダヤでは幼くして病死するために、子供は短命であった。そのために親は、イエスに触れて祝福を頂こうとした。いかなる時代も子供への親心は同じである。子供は社会の加護の中で成長し育成され、単に親の私有物としてではなく、次世代を繋ぐ大切な存在である。当時のユダヤでは、子供の社会的地位は低かったが、イエスは子供達を大切にすることを教えられた。しかし弟子たちは、親たちの気持ちも考えずに彼らを叱った。
 
 第2のイエスの教訓:弟子たちの叱りについて。

 ある注解者は「一発ドカンと怒鳴った、考慮の余地なし」と解した。叱る事は大切だが、性急で状況判断の欠如した叱り方は要注意。弟子たちは、子供達がイエスの邪魔になると思って叱ったのだろうか。でも、その叱責は的外れだったために、イエスの憤りを買った。私たちも、教会における様々な課題において、主に喜ばれることが何かを心に留めて対処しなければならない。そのために、みことばの導きを求め、心を合わせて祈り、御霊の一致を求めなければならない。

 第3のイエス教訓:主の憤りとは。

 主が「憤られた]と書いているのはルカだけである。イエスに触れることで、神様の祝福を受けることの邪魔をしてはいけないということだけで、主が憤られたとは考えにくい。他にも憤られた理由があるのでは。というのもこの出来事の前に、弟子たちは、自分たちの中で誰が一番偉いかという論争をしていた(ルカ9章46−50)。その時、イエスは一人の子どもの手を取って「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」と教えられた。だが、弟子たちはその教訓をすっかり忘れ、イエスのそばに連れて来た人々や子どもたちを叱りつけた。「神の国はこのような者たちのものです。まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」つまり、主の憤りのわけとは、弟子たちが邪魔扱いをした子どもたちこそ、天国に入る鍵を握っているということを、見失わないためではなかっただろうか。
 
 ある注解者は「子どものように、自己を誇示せず、努力や功績を根拠にせず、親に信頼するように神に近づき、イエスがもたらす御国の特権を謙虚に受ける者が、神の国に入ることができる。」と語る。

 大人になればなるほど、失われていく幼子の純真さ。どんな時でも親を信じるという絶対的な信頼心、そして彼らの無垢と素直さこそが天国に入り、神様から祝福をいただく鍵である。信仰の知識においては大人を目指し、信仰の精神(スピリット)においては子供のように。まさに、この箇所から学ぶべき教訓ではないだろうか。