「神をほめたたえよう(Ⅱ)—罪から解放された者— エペソ1章7−12節 2018年8月19日(日)港

「神をほめたたえよう(Ⅱ)—罪から解放された者— エペソ1章7−12節 
 私が5歳か6歳の時に、同い年の男の子に石を投げて大怪我をさせた。そのために祖母が、当時では高価な箱入りの卵を持って友人の家に行き謝ってくれた。それで、その後も私はその友人と遊ぶことができた。しかし当時の私は、祖母が仲介者となってくれていたことなど知るすべもなかった。
 さてパウロは7節で、「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、そむきの罪の赦しを受けています。」とイエス・キリストが私たちの罪の赦しのための仲介者であると語っている。では、そむきの罪とは何か。パウロはローマ書5章12節で「ちょうどひとりの人(アダム)によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、それというのも全人類が罪を犯したからです。」とアダムによるそむきの罪はすべての人類に引き継がれたと語る。
 さて、私が友達を怪我させたという罪(成人なら傷害罪)は、箱入り卵と謝罪した祖母の行為によって友人のご両親に赦された。しかし、いかなる人であれ、またいかに高価なものであっても罪人が赦されるための代償にはならない。つまり人間の努力や良い行いなどによる救いの道はないのである。しかし、神は罪人の救いのために、罪なき神のひとり子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとされた。
『神は。罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためでした。』(第2コリント5章21節)
 罪人の仲介者となってくださったイエス・キリストを信じることによって、アダムの罪の結果もたらした永遠の死という恐ろしいさばきから救われたのである。神の一方的な愛と恵みによって罪から解放された者にとって、いつくしみと憐れみに富み給う神は賛美されるに最もふさわしいお方である。

「神をほめたたえよう(Ⅰ)」—神に選ばれた者— エペソ1章1−6節 要約 2018年8月5日(日)

   「神をほめたたえよう(Ⅰ)」—神に選ばれた者— エペソ1章1−6節
 
 この手紙が書かれた目的は、エペソ教会の異邦人クリスチャンたちが、異端の教えに惑わされずに真理に立ち返るためである。
 さて、パウロの宣教がおよそ30年を経過する中で、伝道の働きのゆえに迫害を受け、しばしば命の危険にさらされるという多くの苦難を経験していた。
 その彼が、1章で繰り返している言葉が「神がほめたたえられますように」、あるいは「神をほめたたえるために」である。
 ではパウロがどのような状況の中にあっても、神を心からほめたたえることができたのはなぜか。それはパウロの神の救いについての認識の深さにあるのではないか。

 第1に、神の一方的な恩恵による救いという認識 青年で優秀な律法学者であったパウロは、クリスチャンを迫害する側にいた。しかしある時に、ダマスコ途上で復活の主に出会いクリスチャンとなる。このような経験は、彼の努力や願いや功績ではなく、神からの一方的な恵みによる。
 それゆえに、パウロの救いの神学は実に確かなものである。それは、天地万物の創造以前からすでに選ばれていたというものであり、しかも、人がその過去における罪を一切問われず、ただキリストを信じることにより、全ての罪は赦され、神の子どもとされ、聖なる者としてくださるというものである。
 神は人類が罪を犯かすはるか以前に、救いの計画を持っておられただけでなく、救おうとする人をも前もって選ばれていたと捉えていたのがパウロである。

 第2に、神の愛からくる必然的な行為による救いという認識 「神のみむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」 私たちの救いをご自身のみこころとされ、罪の贖いのために御子イエスのいのちさえも惜しまずに与えられた神こそ、心からほめたたえるにふさわしいお方である。神がなぜ私のような者を選び、救ってくださったのかを知るすべはない。
 たとえその理由は分からないとしても、世に比類なき神の救いにあずかっている事実に、感謝と喜びをいつまでも持ち続けるのみならず、パウロのように、いかなる時であっても心から神の栄光をほめたたえる者となりたいものである。
 

「世の終わりに備えよ」ダニエル書9章24節―27節 要約 2018年7月29日(日)

 「世の終わりに備えよ」ダニエル書9章24節―27節 

 今から約2600年前に書かれたダニエル書9章24―27節を中心に世の終わりの預言について学ぶ。この箇所はダニエル70週預言である。
 この70週預言とはペルシャのアルタシャスタ王によるエルサレム再建命令(ソロモン王による第一神殿は、BC586年バビロン帝国が破壊)が出てから7週目(49年:1年を1日:エゼキエル書4章6節))に再建完了、さらに62週(434年)経過してメシヤが断たれる(キリストの死)。その後エルサレムはAD70年(ヘロデ王による第二神殿)にローマ軍により破壊。イスラエル人は祖国を失う。1948年のイスラエル共和国再建までのおよそ1900年間流浪の民となる。

 つまり、ダニエル69週とはユダヤ人についての預言であり、69週の後に挿入された教会時代は7年間の患難時代の前に終わる。クリスチャンは患難時代に入る前に地上から空中まで携挙されて、患難時代から守られる(大患難後の携挙説もある)。

 7年の患難時代の前に(?)北の王国といくつかの同盟国が、ある日イスラエルを攻め入るが(エゼキエル38章)、神のご介入によりイスラエルは圧倒的に勝利する。
 その頃に復興ローマ連合国(10の国)が興り、連合国のリーダーが中東和平条約を締結させる。その結果エルサレムに第三神殿が建設される。

 さて、前半の3年半は平和であるが、後半の3年半(大患難)は、復興ローマ連合国のリーダー(反キリスト)が、ユダヤ教を迫害し、世界の政治、経済、宗教を統合する(恐怖時代:黙示録13章)。

 大患難の終わり頃にハルマゲドン(メギドの丘)周辺に世界各国の軍隊が集結し世界戦争勃発となる。その最中にキリストの地上再臨により戦争が終結する。つまり、聖書が言う世の終わりとは、人類の滅亡ではなく時代の終わりである。神が人間に託された時代の終焉を意味する。

 続いて、キリストによる平和な世界統治が始まる。その期間は1000年間で地上千年王国と呼ばれる。その後は、永遠の御国の到来である。 
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(ヨハネ5章24節)



   

「聖書を基とする信仰(Ⅱ)」-みことばに聞く-ルカ24章44節〜53節 2018年7月22日(日)

     
 地上で最後となるメッセージを通して、主が弟子たちに願われたものが2つある。まず第1に、聖書全体を学ぶようにとのメッセージである(44節)。
 主が言われた、「モーセの律法と預言者たちの書と詩篇」とは聖書全体のことを指す。つまり聖書全体から神について、キリストについて、人間等々について学ぶことの勧めである。比較的分かりやすい新約聖書だけでなく、難解と思われる旧約聖書を学ぶことによって聖書の理解をより深めてくれる。
 バランス良く聖書を学ぶために、日々のデボーション(みことばを読み、神に祈る時)で用いるテキストが良い助けとなる。また聖書教理を学ぶならさらに聖書の理解は深められる。
 
 さて、次に主が願われたのは、ご自身の十字架の死と復活を信じる者に与えられる罪の赦しと救いの福音を全世界に宣べ伝えるようにとの願いである。第2は、聖書を悟る(理解する)ことにより、神のみこころを知るというメッセージである(45節)。
 これは、聖書を悟ることなくして神のみこころを知ることは難しいということである。
 では、この聖書を「悟る」とはどういう意味なのか。「悟る」とは「理解する」という意味であり、聖書を理解するあるいは分かるためには心が開かれる必要がある。
 43節で、「イエスは、聖書を悟らすために彼らの心を開いて」と書かれている。つまり、聖書を理解するためには心を開かなければならない。
 聖書を読むだけにとどまらずに、祈り心を持って聖書を読み、黙想し、熟慮し、熱心に学ぶという心がけが求められる。実は信仰の土台(もとい)において、聖書を読むだけでは不十分であり、まして聖書を開かないなら、神に祝福される信仰生活を維持するのは極めて困難である。
 しかし強制的ではなく、律法的ではなく、神の恵みによって互いに励まし合ってみことばの中に満ち溢れている恵みをともに分かち合って行きたい。
 
「みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。」(ガラテヤ書6章6節)

   「聖書を基とする信仰(1)」―日々のデボーションを大切にールカ24章13〜35節 2018年7月15日(日)

 
 エルサレムからエマオに向かう2人の弟子たちは、愛する主が死なれ、大きな悲しみの最中にあった。しかし、道中にて復活されたイエスが現われた時に、彼らはイエスとは全く気づかなかった。ところが、道々主によって聖書全体からご自身について教えられ、彼らの心は燃やされた。  
 その日の宿を取った食卓にて、主がパンを取って神に祈られた時に、2人の目は開かれイエスだと分かった。これらの出来事から、確かな信仰を持つための秘訣とは何かをみましょう。
 
 確かな信仰の第一の基とはデボーション(静まる時)にある。2人が、復活の主にお会いする前は、落胆し、希望を失い、その信仰は全く弱っていたであろう。しかし、復活の主からみことばを聞き、心を動かされ、さらに食卓での主との交わりによって霊の目が開かれ、2人は復活の主を認識できた。
 
 私たちも日々みことばに耳を傾けて、みことばに教えられ、みことばに導かれるなら、私たちの心は満たされ(燃やされ・動かされ)、生ける神と交わることにより、世の誘惑や悪の力から守られる。ここにデボーションの大切さがある。

 「朝ごとに、立って主をほめたたえ、賛美し、夕べにも同様にすること。」(歴代誌第一2章30節)

 次に、確かな信仰の第二の基とは、デボーションの継続にある。弟子たちのエマオでの体験は、後々の信仰の歩みにおいて大切な教訓となり、よみがえりの主は、いつでも、どこでも、共にいてくださるという貴重な体験をしたのである。

 「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなた方ともにいます。」(マタイ28章20節)

 私たちが確かな信仰を持ち続けるためには、日々のデボーション(理想は朝早く)の確保と継続にある。どうしても時間が取れない場合もある。それでも、1日のどこかに空いた時を逃がさず、主との交わりを持つことが、デボーションを継続させる良い方法である。

「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」
                                    (ローマ書10章17節)