『神を恐れかしこむ』 第二コリント6章14−7章1節 2012年11月25日(日)
「神を恐れかしこみ、聖さを求めよ」
第2コリント6章14−7章1節 12.11/ 25
ダビデの息子ソロモンが王となった時に、イスラエルは非常に繁栄しました。『ソロモン王が飲み物に用いる器はみな金であった。レバノンの森の宮殿にあった器ものもすべて純金であって、銀のものはなかった。銀はソロモンの時代には価値あるものとはみなされていなかった。』(列王記第110章21節) このように、ソロモン王は贅沢三昧の生活を送りました。
また、ソロモン王は快楽主義の生活を極めました。『彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめが合った.その妻たちが彼の心を転じた。』(列王記第11章3節) また、このようにソロモン王は多くの妻を持ったゆえに、多くの誘惑にさらされ、偶像礼拝に陥ったのです。挙げ句の果ては、イスラエルはユダと北イスラエルに分裂してしまったのです。
まさにソロモン王は自ら蒔いた種の刈り取りを強いられるという人生を送ったのです。それでも彼は神様に見捨てられることはなかったのです。
反対にパウロという人物は、クリスチャンを迫害する者でしたが、イエス・キリストに出会って彼は、将来を約束されていたエリートの道を捨て、キリストのために生涯をささげ、苦難の人生を選択ししたのです。
ところが、神様はソロモン王もパウロも同じ信仰者として、神の国に迎え入れてくださったのです。
いかなる生き方をしたとしても、最後まで神様をしっかりと信じているなら天国に行くことが出来るという事例であります。でも信仰者が模範とすべきはパウロの生き方ではないでしょうか。聖書もそのように奨励していると思われます。
とはいえ、クリスチャンとしていかに生きるかは、各自の自由意志にゆだねられているのです。しかし、神様が私たちに求められているのは。やはり神を恐れかしこみ、聖さを求めて生きることなのです(7章1節b)。
正直なところ、おおよそクリスチャンは、ソロモンのような生き方はできないし、またそのような生き方をすることはないでしょう。かといってパウロのように生きることは至難の業ではないでしょうか。
そのような狭間の中で、クリスチャンはいかにして生きるべきかをみことばからご一緒に考えてみたいのです。
まず第1に、クリスチャンとノンクリスチャンについてどう考えれば良いのかを(14、15節)考えて見ましょう。
クリスチャンとは本来、ノンクリスチャンから付けられたあだ名であったということはご存知だと思います(使徒11章26節)。それは当時のクリスチャンたちは、いつもイエス様のことを熱心に語っていたからだと言われています。つまりキリストばかだったのです。
そういう意味でのクリスチャンとなれば、今日の私たちがクリスチャンと言えるのかどうか考えさせられるというのが本音ではないでしょうか。
さて、けさの聖書箇所を見るなら、どうも自分は生温いクリスチャンではないかと思わせるようなみことばが書かれているのです。
では14、15節のみことばを現在の私たちクリスチャンはどう受け止めれば良いのでしょうか。
この不信者とは、ノンクリスチャンというよりは、イエス・キリストに対してすごく反抗的、あるいは攻撃的な態度を取る者という解釈があるようです。
イエス様は、おそらく見せかけの宗教家たち(パリサイ人や律法学者たち)をこの領域(不信者)に入れられたように思われます。もし彼らにひとかけらの正義があれば、イエス様を十字架刑に処することはなかったはずです。ところが、光のお方が彼らの前に現れたにも関わらず、彼らは闇を愛したのです。
つまりそれは、イエス様が彼らの心の中にある罪を照らされたにも関わらず、彼らはその罪を認めず、悔い改めなかったのです。そして真の神であられたイエス・キリストを信じる者を迫害したのです。口先では神様を信じていると言いつつも、その心は神からとく離れていたのです。
私自身も、かつては不信者と言われるような行為をクリスチャンに対してしていたのです。しかしそれはパウロのように、真理を知らなかったためでした。そして、真理であるイエス様を知り、その方を受け入れた時に、すべての罪を赦されて神様の子どもとされたのです。
ということで、当時の律法学者たちのように、真理のお方を知りながらなお神を受け入れず、神と敵対する者を不信者と、パウロのように、たとえクリスチャンを迫害するような不信者と思われるような者であっても、真理を知って、神を受け入れた者と不信者とは区別されるのです。
つまりイエス様を信じる前のパウロはノンクリスチャンであったと言えるのです。
もし、家族の中において、真理を知らないで、キリスト教に対して反対や反感を持っているということでは不信者とは言えないのです。むしろ、福音を伝えるべき対象者であり、救われるために忍耐して祈り続けることが求められるのです。
あるいは家族以外の身近な人で、キリスト教をよく思っていない人がいるかも知れません。しかしその人は決して不信者ではないのです。ノンクリスチャンですが、神様に愛されている人であることを忘れてはいけないのです。
場合によっては、異端と呼ばれているエホバの証人の人たちの救いのために労苦を惜しんではいけないのです。
サタンに組する不信者(くびきを共にしてはいけない)に対するさばきについては神様に委ね、サタンに惑わされている人々の救いを心から願うのが真のクリスチャンではないでしょうか。
さて、私たちの救霊の思いは冷めてはいないでしようか。天に召されるまで救霊の思いを熱く持ち続けるキリストばかになりましょう!
次に、偶像(16—18節)について考えて見ましょう。
第一ヨハネの手紙の最後は、『子供たちよ。偶像を警戒しなさい。』で締めくくられています。
イスカリオテ・ユダは反キリスト的な態度を取っていた祭司長や長老たちと関わってしまい、銀貨30枚でイエス様を裏切りました。まさにユダは不信者とつりあわないくびきをともにしてしまって、自ら身を滅ぼす結果となりました。ユダはお金が偶像となったのです。
これは、主なる神様よりも大切なものがあってはいけないという例証です。もし主なる神様よりも大切にしている他の神々があるなら偶像礼拝となるのです。お金も神々も両者ともに物質なのです。
十戒において、第1と第2の戒めとは何かをご存知でしょうか。第1は『わたしのほかに。ほかの神々があってはならない。』第2は、『偶像を造ってはならない。拝んではならない。それらに仕えてはならない。』(出エジプト20章2−5節)のです。
人は真の神様を知るまでは礼拝が出来ないばかりか、してはいけないのです。真の神様に対しては霊的姦淫罪であり、人は偶像礼拝(人よりも劣るものを礼拝—あがめることによって)によって、自らその人間の価値を損ねて(無価値なものに)しまうのです。
つまり偶像礼拝とは、神様の心を深く悲しませるだけでなく、人の心の無知を巧みに利用するサタンに惑わされている状態なのです。そして偶像礼拝は決して真理の道に導かれるものではないのです。やがて永遠に滅びて行くサタンの道連れとなるのです。
私たちクリスチャンは、偶像に満ちた私たちに国を憂い、偶像礼拝から悔い改めるように祈らなければなりません。国民の救いのために祈ることは、国民を愛することです。何よりもそれは神様ご自身が切に願っておられることなのです。
毎週聖日に神様を礼拝することは、どれだけすばらしいことで、大切なことであるかを再認識しましょう。偶像礼拝から得るものは偽りの豊かさです。しかし真の神礼拝は、真の豊かさを得るのです。
最後は、神を恐れかしこみ、聖なる者となることです(7章1節)。
私たちの罪は、滝に打たれてきれいになるものではないのです。あるいはお祓いによってなくなるものではないのです。まして良いことを積み重ねることによって罪がどんどんマイナスになることはないのです。私たちは聖書で教えられているように、生まれながらにしての罪人であるということです。罪人が罪人を解放することはできないのです。奴隷が奴隷を解放できないのと同様です。奴隷を解放できるのは、奴隷をお金で買い取って、自分のものとしてからその奴隷を自由にすることが出来るのです。
罪の奴隷から解放して下さったのは、イエス・キリストです。私たちの罪という支払い切れない債務を肩代わりして下さったのがキリストです。それは私たちが支払うべき罪による神のさばきを、キリストが身代わりとなってくださって十字架で受けて下さったのです。
そのお方を主とあおぐなら、その人は神の子どもとなれるのです。なぜならその人の罪による代価をキリストが全部支払って下さったからです。そのようにして神の子どもとされた者が、霊の汚れから、肉の汚れから身を守るのは当然の責務と言えるのではないでしょうか。
『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』(第一ペテロ1章16節)と聖書は勧めているのです。
では聖さを全うしていく秘訣とは何でしょうか。それは神を恐れかしこむことからです。常に神を恐れ敬う心は、この世の誘惑の力から勝利をすることが出来るのです。そして悪魔の惑わしから身を守ることが出来るのです。
神を恐れ敬うためには、神のみことばに聞き従う事が大切なのです。なぜならサタンは、アダムやイエス様を誘惑する際に、神のことばを疑わせることに力を注いで惑わしたからです。
聖さは難行苦行といった修練によるのではなく、みことばの力によるのです。それは、みことばの約束への信仰と従順によるのです。
『どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのみことばに従ってそれを守ることです。』(詩篇119篇9節)